丸の内サディスティック(No.008)
どうも、電車に揺られていると感じることがある。その違和感は、都心を1日に19周も回るという山手線の車内にいるときが、最も強い。
……排他。
短く表現するなら、この言葉かもしれない。
雑音を隔絶するためか、イヤホンで耳を塞ぎ音楽を聴く、学生らしき男性。座席で居眠りをする、少しくたびれた様子の、サラリーマンらしき男。スマホでなにやらスクロールを繰り返す、若い女性。その場にいる全員が、まるで能面を被っているかのように見える。
東京では当たり前の光景。日常でしかない。しかし、生まれてこの方18年間を終電が22時でなくなる田舎で生きてきた僕には、少しばかり薄気味悪い。
この人たちは、一体何を考えているのか。普段の居場所では、どんな立ち居振る舞いなのか。なぜこれほどまでに、澄ました顔でいるのか。どうしてもそう思えてしまうことがあるのだ。
そして、ここまでとりとめもなく頭の中を思考が光の反射のように駆け巡った後で、止まる。
自分はどうなんだ?
自分だって、スマホの画面の中で、何が展開されていようと、表情を崩して笑ったり、顔をしかめたりはしない。イヤホンで雑音を遮断して吊り革に掴まる。この時僕は、なんら周りと変わらない、同じことをして、同じように硬い表情をしているはずだ。
周りに合わせることは、日本ではしばしば美徳とされる。「出る杭は打たれる」という諺は、日本人の同調性を象徴していると言っても過言ではないだろう。そして、日常でこれが顕在化するのが、電車内というわけだ。
でも、金曜日の夜は少し違う。
座席に座るひとも、吊り革に手をかけているひとも、多くがが露骨に疲れた表情をしたり、酔って気の抜けた顔をしていて、なんだか人間味がある。
この間は、明大前で酔いつぶれた若い男性が、駅員さんに起こされていたし、僕の隣に座っていたサラリーマンらしき男には、僕の傘が邪魔だったのか、舌打ちされた。
また、今日は、おじいさんが女性に落し物を拾ってもらい、何度もありがとう、と言っていた。
良くも悪くも、夜の車内は「能面」の集まりではない。「人間」の集まり。
かく言う自分は、そんな光景を尻目に座席に腰を落ち着けてイヤホンを耳に突っ込み、YouTubeでバカリズムのコントを観て気持ち良く笑っていた。
というのは嘘で、今度こそは隣のひとの邪魔にならないようにしようと、まだ僅かに水滴が残る傘を足の間に挟んで、千歳烏山から席に座っていた、もちろん大人しく。
家を出るとき強かった雨は、改札口を抜けると、殆どやんでいた。僕は嬉しくなり、それまで考えたことは頭から飛んでいったので、東京事変の「丸の内サディスティック」をプレイリストから選び出して、帰路についた。
P.S.
読み返したらまた小説みたいになっちゃってた