雨の降りしきる明大前で(No.007)

ヘッドホンで音楽を聴きながら、雨の音を完全に遮断して歩く。サンダルは既に水に濡れ、鬱蒼とした不快感を与えていた。京王線が鳴らす、レールと車輪の当たる音も、ほとんど聞こえない。まるで外界との接続が切れたようだった。雨の降りしきる明大前。僕と同世代の人びとが、様々な表情を浮かべてすれ違っていく。

 

 

僕は明大生ではないので、周りの学生らしき人を見渡してちょっと奇妙な気持ちになる。友人が井の頭線沿いに住んでいるし、自分にとっても実質ワンドアみたいなものだから、という理由で、ここを待ち合わせ場所に指定した。

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この時点で、察しのいい方は、お前また高校同期の話か?飽きた、大学に友達いねえのかよ、と思うかもしれないが許して欲しい。

高校のときの自分と大学生の自分を対比すると、その変化を感じ取りやすいから、こんなふうに文章のネタになっているのだ。

 

話を戻す。

そんなわけで高校同期とメシに行き、昔話(そうは言っても1年以内の話なんだが)でまた、いつものように盛り上がった。

去年はああだった、こうだった、いやいやそんなことねーわ、と。

 

そして気づく。去年の自分、どう考えてもやっぱり異様に尖ってた。

まあ朝起きて学校までの道のりを英単語を聞きながら登校し、授業の合間には日本史の点検をして、放課後は数学と対峙する。帰ったらごはん食べて風呂入って、英作文書いて寝る。ピーク時はこんな根詰めた生活してたわけだから、心が荒むのは無理もないかもしれない。

 

 

いや、それにしても尖ってた。(2回目)

ここじゃ書けないようなキツいことを平然と言っていたし、正しいもんだと思っていた。

 

 

いまはではだいぶマインドセットが変化した実感はある。(自分はまだまだクソガキなので足りてはいないけれど)

 例えるなら、川の上流ではゴツゴツしていた岩が、下流に流されるにつれて丸みを帯びていくイメージ。確実に伝わらない例えという自覚あるので、流してもらって構わない。笑

 

 

なぜわずか2ヶ月で劇的とまではいかずとも、比較的大きな変化がマインドセットに訪れたのだろうか。

 

 

 

1つには、読書の影響がある。この2ヶ月で、おそらくざっと20冊くらい本を購入した。ジャンルは小説に新書、自己啓発に至るまで割と多様。全部読んだかと言われれば実際のところ半分程度しか読了していない。

しかし、興味関心の「アンテナ」を張る、つまり、自分が持つ視点を広げようとしている、という意味では、読書欲が高まったというのはプラスに働いているはずだ。

 

 

2つ目には、大学で今までに出会うはずもなかった友達と巡り会ったこと。出身も、育ちも、人生哲学も多種多様なひとと出会い、話すことは、田舎に籠っていた頃とは比較にならないほど刺激的だった。そしてこれからも、それは続いていくであろう。

 

 

僕は物事を浅くしか考えられないので、この程度しか感知できなかった。なんだか、いつも似たようなことばっかり書いている気がする。

もうちょっと日常の出来事を敏感にキャッチできるセンスというか、素地というか、感覚が欲しい。

 

 

こんなことを考える6月半ばの26:00。ブログを更新するのはなぜかいつも深夜になる。時計の秒針が刻む規則的な音が耳障りになってきた。しばらく眠りにつけそうにはない。