H31年、5月

「終わりの始まりだよ」

 

 

恋人のスマホが気になる彼女に言った。でも恋愛が始まった時点で終わりの始まりは始まっていて、あんなに好きだった人の香りも思い出せなくなっていて、それでいてふとした仕草は脳裏に焦げついて離れなくてGWは終わって外は曇天でどうしようもなくなってベッドの上、スマホを開く。

 

 

 

 

哲学の本を読んだ。ニーチェトマス・アクィナス。ルソー。歴史を作った天才達が活字となって甦る。皆がどこかに出掛けている。そんな錯覚に陥りがちな連休。ソシュール記号論が紙の上で踊り始める。

 

 

 

 

有機物と無機物の区別がつかない怪物が空に現れたら、リンゴも人間も石ころも同じに見える。それらを雪玉の如くぐちゃぐちゃにして形を変えたとして、彼にはなんの感慨も湧かない。」

 

 

 

 

 

ニーチェも雄弁に語り始める。

 

 

 

 

「道徳とは、弱者のルサンチマン(恨み)に過ぎない。」

 

 

 

 

 

そう、一度でいいから、シン・ゴジラみたいな怪物が東京近郊に現れて、全てを破壊してくれたらどんなに爽快だろう。GWも幕張メッセも東京タワーも男女平等も街宣車も慈悲も道徳も何もかも全て。

 

 

 

 

 

ぼんやりとページを捲るこどもの日の16時16分。カタカタと音を立てる物干し竿に、柔らかく揺れるカーテンと差し込む光。シャワー直後の最高に清潔な身体でベッドに体を預けるのは最高に気持ちがいい。

 

 

 

 

 

 

我々は、いや少なくとも僕は、これからも過去をちょっとずつ引きずりながら生きていく。喜びも痛みも一瞬で捨てることは、現実に当たると難しい。そう、フッサールみたいに、「僕が見ている世界は全て夢なんじゃないか…本当に存在するのは脳だけ…三次元的な体験をしているだけなのか…」と、大真面目に捉えたりはできない。

 

 

 

 

まあなんでもいい。外へ出た。軽やかな足取り。読書はメンタル管理の特効薬になりうる。少し湿気を含んだアスファルト、夕暮れの空、湿らずとも乾かない素直な空気。春は4月に置いてきた、わざとらしく言えば「平成」に置いてきたと言わんばかりの気持ち良さだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

無思考の無自覚が1番ヤバい

 

まず、この表を見て欲しい。有名なものだから、見たことある人もいるかと思う。

 

 

 

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僕らは今、大学生という身分だ。世間一般的には、「一番遊べる」「人生の夏休み」と形容される、最高に自由な身分だ。僕も、周りの友人たちも、思い思いの形で大学生という若さを謳歌している。

 

 

 

でもちょっと待って欲しい。たしかに僕らは自由だし、遊び呆けることは可能だ。何も考えず、ただ漫然と日々を過ごせる、立場上は。

 

 

 

 

 

 

でも、本当にそれ「だけ」で良いんだろうか。

 

 

 

 

 

4年間という時間を自由であることに依存し続けていいのだろうか。アタマを使わないまま過ごしていいのだろうか。

 

 

 

 

僕はそんな時間の使い方に懐疑的だし、反対だ。こうして言い切るのはなぜか。理由はただ一つ。

 

 

 

 

「考えない人間は、高校生からほぼ成長しないまま存在し続け、社会に出ることになるから」

 

 

 

 

考えない人間なんて存在しない?存在するんだよそれが。しかも、割とたくさん。というか、日和見主義的な考え方で動いてる人、基本的に考えてないよ。座右の銘が「流れに身を任せる」の奴とか、それ思考と意思を放棄してるだけだからな。

 

 

 

 

 

 

まず「考える」ってのは、脳みそが指令を出して体を動かすことじゃない。ここで言う「考える」は、自分の行動の軸をきちんと持っているか、否か。そして、常に自分をアップデートし、己と対話してるか、否かだ。

 

 

 

 

例えば、

・自分は今、何を重視して生きているのか

・自分は今、何を目的に行動しているのか

・自分は将来、どうなりたいか模索しているか

・そのために、何をしているか、または何をしたか

・自分は何が好きなのか

・自分にはどんな長所、短所があるのか

 

 

 

少し抽象的でも、こういう考え方を日々していないと、毎日自分の内面には何の変化もなく時間は過ぎていくと思う。それは表面上、生活が楽しく充実していても、だ。

 

 

 

 

ここで冒頭の表に戻る。

 

 

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知っているor知らない、の文言を「考えているor考えていない」に変えてみよう。

 

 

 

右下は、「考えていないことを認識していない」だ。

めちゃめちゃヤバい。ただ惰性で大学へ行き、バイトをして、友達と遊ぶ、恋人とデートする。考えていないから、物事は場当たり的で具体的にしか見えない。起きた出来事を抽象的に考え、そこから何が学べるのかは永遠に見えないままだ。

 

 

 

 

 

 

そして、その事実にさえ、気づいていない。

 

 

 

 

 

そうやって生きていると、1年前の自分とほぼ同じ考え方のままだ。そして来年も再来年もver.1.0のまま気づけば就活・卒業を迎える。

 

 

 

 

そのことには気づいていない、いや気づけない。

 

 

 

 

 

 

毎日アタマを使って生きよう。自分をアップデートしながら生きよう。そうしないと、きっと将来的に薄っぺらい人間になってしまう。僕は大人が言う「社会」ってやつがどんなもんか知らないけれど、なあなあで生きていけるほど甘くないんじゃないかって予測を立てているから、自己アップデートくらいしなきゃいけないんじゃないのって思う。

 

 

 

 

 

じゃあどうしたらいいか。そこから、「考える」は始まっている。

 

 

 

 

 

 

マジSNSで消耗すんの辞めようぜ

まもなく平成が終わる。令和が始まる。文化的観点から考えた、昭和と平成の、最大の違いはインターネットがあるかないかだろう。公衆電話はスマホに変わり、地図帳はGoogleMAPになった。写真屋で現像していた写真はInstagramへ、手紙で伝えていた言葉はLINEへ。

 

 

 

今や、ポケットにスマホが入っていることは、常時世界と繋がっている事と同義だ。

 

 

 

 

テクノロジーの進歩は凄まじいと思う一方で、僕らは本当にテクノロジーを使えているのだろうか。スマホを使っているつもりが、いつの間にか「使われて」はいないか。

 

 

 

 

そんなの自分じゃわかんねえよって?

 

 

 

 

 

いや大学生結構みんなそうだよ。どこか行って楽しかったから載せるんじゃなくて、載せたいからどこか行く。感性のままに写真を撮るんじゃなくて、「映え」のために撮る。目的と手段が逆転してんだよそれ。

 

 

 

本当に大切なのは、周りから見て「楽しそう」「いいなあ羨ましいなあ」「イケてるなあ」って思われることなんか?それならそれでいいと思うけど、後から振り返って気づくぜ。当の本人だけには分かる、感覚的に、他人からの見てくれだけ気にした日々はクソ薄っぺらいなって。もしくは「そのことにすら」気づけない。SNSのおかげで感性狂っちゃってるんだろう。いやまあ、別に否定する気はなくて、それも1つの生き方かなっては思うけどね…

 

 

 

 

思い出は残したいから、記録するのはいいことだと思う。でも「思い出作り」に奔走するのは違うだろ、と個人的には思っちゃうんだよね。本当に記憶に残るのは、ゴリゴリに決めて加工した自撮りでも映えを狙って行ったカフェでもない。きっとコンビニで買ったおでん持って公園で食って3時間駄弁ってたみたいな一瞬で、なんとなく逃した終電で、先輩の吸っていたタバコから漂うマルボロの臭いで、そういうふとした、飾らない一幕が本当にエモいわけで。ああまあ、人間の感覚なんて多種多様だから前者2つが思い出だよ!って人もいるだろうし押し付けようとかじゃない。あくまで一意見だからとりあえず怒らないでほしい。

 

 

 

 

 

 

で、だから要するに、SNSで「あの子いいな」「私(僕)なんて…」みたいにネガティブになって消耗しちゃってる大学生は捉え方変えて欲しいなって思う。

 

 

 

 

 

本当に大切なものは、スマホじゃ写せない。

 

 

 

 

日本人の悪いとこ如実に出てるからね、大学生って。自由ゆえに周りに縛られて、結局自分がやりたい事は何か考えないまま、日和って終わり。マジでしょうもねえよ。個性的な奴らは「変だから」「キモくね?」で括って、多数派でいることに、周りと変わらないことに安心するだけ。個性的であろうとポーズ取ってるのに結果的に無個性なの滑稽でしかないよ。

 

 

 

 

 

出る杭は打たれるって言葉がある。自分もブログ始めたとき散々ネタにされてバカにされたし、カメラのときも同じだった。金髪でゼミの面接受けに行った時もお前常識ないんか?って言われた。それでも今はなんとも言われないし、結局のところ、自分の軸持ってるのが一番強い気がしてきた、出過ぎた杭は打たれない的な感じで。いや、じゃあお前は出過ぎた杭なんか??個性的なんか??日和ることないんだな??って聞かれたらそんなの知らねえけど、少なくとも「お前キモくね?変じゃね?おかしくね?」みたいな類の、言葉のナイフで幾度となくブスブス刺されてきたから外れ値みたいな奴を排除する感覚は弱いかなと思う。

 

 

 

 

 

まぁとにかく、マジSNSで消耗すんの辞めようぜ、勿体ない。自分の好きなことしてれば、なんか運の流れ来てちゃんと回り出すし、それやって許されるのが我々の身分で、若さの特権でしょ。

 

 

もれなく春Spring

春が開放感と虚無感を伴うのはなぜか。期待と不安も運んでくるのはなぜか。そもそもどうしてこの世は二項対立で形成されているのか。なぜ桜は人々が待ち望んだタイミングで咲いて、もう少し待ってよという短さで葉桜になるのか。冬と春の境界線はどこに引くべきか。

 

 

 

 

 

春だ。疑いようもなく。

 

 

 

 

 

 

暖かくなると4月病に苛まれて、おかげで無駄な出費に精が出る。枕元に渦高く積まれた本。TOEICの参考書。全部できる気がした。毎朝早めに起きてランニングもできると思ったし、筋トレも毎日30分ならできると信じて疑わなかった。自分には、少しばかりの期待をかけて生きていたかったからで、それ以上でもそれ以下でもない。

 

 

 

 

 

 

 

理想と現実、その二項対立はこの世で最も美しく、同時に最も残酷な対比だ。気温の変化と共に全身に注ぎ込まれていたやる気は、春一番が吹く前に跡形もなく消え去る。理想が牙を剥き、あらゆる目標が、現実をまざまざと突き付ける無用の長物に変貌するのは、やる気が消え去ったその瞬間からだ。僕らにできる、せめてもの抵抗は、幾つかしかない。無用の長物をクローゼットの奥にしまい込む。春だからって調子に乗るんじゃなかった、いや間違いないよと笑い飛ばす。自分にも他人にも期待をかけずフラットに生きる、忘れたいことは全部なかったことにして飄々と口笛を吹く。嫌なこともスト缶もレッドブルも全部ロックアイスの中にぶち込んで飲みほしてしまう。

 

 

 

 

去年も同じように浮かれて、同じように現実に叩きつけられた。そして、春だからって調子に乗るんじゃなかった、いや間違いないと笑い飛ばした。自分にも他人にも期待しないで生きようと思った。それなのに、今年もまた同じことを繰り返している。

 

 

 

 

 

教習所でやらされた適性検査では嘘をついた。夜中なら制限速度をオーバーしてもいいと思っていたし、赤信号でも車が来なければ横断歩道を渡って今まで育ってきた。全部逆の答えを書き込んだ適性検査は3-Cで、「安全運転タイプ」らしい。でも高速道路を100キロで走っているとき、僕は足1本で動かせる殺人装置を手に入れた気がして怖くなっていたし、でも同時に少しだけアクセルを踏み込んだ。ペーパーテストで人間を測ろうとする安直さが身に染みた。僕にもう少しだけ、教師と親の顔色を伺うセンスがあれば、適性検査は5-Aの最高ランクで返ってきていたのかもしれない。

 

 

 

 

まもなく4月だ。間違いない。去年と同じ虚無感に襲われる。間違いない。

 

 

 

 

 

 

飽きるまでは無為自然に生きてみる。間違っているかもしれない。それでもいいのは、紛れもなく、春だからだ。

 

 

 

 

 

 

なぜ来賓挨拶は長いのか

卒業式と入学式に必ずついてまわるのが、来賓挨拶だ。だいたいの場合において、白髪のおじさんが出てきて長々と喋る、あれだ。

 

 

 

 

僕は小学校の頃から来賓挨拶が好きじゃなくて、いつもどうやってあの時間を潰すか、そればっかり考えて式に臨んでいた。中高に至っては、もはや一刻も早く眠りに落ちて一瞬で挨拶が終わった錯覚を起こすことに命を懸けていた。

 

 

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さて、そもそも論として、なぜ来賓挨拶は長いんだろうか。理由と打開策を考えた。

 

 

 

 

 

  1. 長ければいいという日本の悪しき慣習
  2. 短くできない、大人の事情
  3. 短くするためには???

 

 

 

 

 

1. 長ければいいという日本の悪しき慣習

 

 

僕は、我慢とか根性論が好きじゃないんだけど、まあそれは横に置いといて。長々とした挨拶は、結局のところ何か伝えたい内容があるわけじゃなくて、形式を重視した結果だとおもう。だって考えてみてほしい。登壇するお偉いさんたちの話なんて、全部同じでしょ?校長先生もPTA会長もよくわかんないおじさんも。

 

 

 

 

「卒業おめでと。これからも楽しいこと辛いことあるかもだけど、ファイトやで!」

 

 

 

 

要約しちゃったらこれで終わりだ。内容なんてあったもんじゃない。40字以内で終わってしまう挨拶を、いかに引き伸ばすかが肝だ。手を替え品を替え、同じ内容を難しい言葉を使って言い換え、自然の変化とか時事ネタを例に挙げて、とにかく、一生懸命に、ダラダラ喋る。その結果、お偉いさんたちの間で「いい挨拶だった!」となるわけだ。日本の悪しき慣習だよね、こういうのって。本来大切な「内容」には目もくれず、とにかく型にはまった「形式」を重視する。ゆとり世代からするとたまったもんじゃないよね。

 

 

 

 

 

2. 短くできない、大人の事情

 

 

Twitterで流れてきた情報だから、信憑性は怪しいんだけど、こんな話があった。

 

 

ある教師が、来賓挨拶を5分以内にしませんかと提案したところ、校長に激怒された。「そんな失礼、先方に言えるはずがないだろ!」更には、「そんなに嫌なら代わりに挨拶してくれる人を連れてこい!」

 

 

大人って大変なんだなとつくづく思う。でも別に、短い=失礼 っていう論理はなんでなの???とは同時に思うよね。別に講演会を5分で終わらせて!って頼むわけじゃないし。卒業式や入学式に際して、本当に伝えたいことを5分にまとめるとか、お偉いさんたちのスキルにかかれば余裕でしょ、それすらできないなんて、そんなまさか、いや、中学校の生徒会長じゃないんだから。

 

 

 

 

 

3. どうすれば短くなる?

 

さあ、好き勝手文句を垂れた以上、ちゃんと打開策を示さないといけない。そんなの無理だよとは言わせない。我々大学生も使っている、あれを使えって話。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そう、PowerPoint

 

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本来挨拶で最も大切なのは「なにを卒業生or入学者たちに伝えるか」であるわけだ。それを単純化し、図表を使い、わかりやすく示せるのが、PowerPointだ。そして登壇した来賓は、スティーブ・ジョブズさながらにプレゼンを行う、例えばこんなふうに。

 

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実に合理的だ。当然ながら、冒頭にある、時候の挨拶もステージを歩き回りながらする。

 

 

「こんにちは卒業生の皆さん。最近どんどん暖かくなっているね。季節の変わり目ってのは、体調を崩しやすいから、気をつけるんだよ…さて本題だ…」

 

 

 

これなら要点が整理されている、5分~10分程度の挨拶で済むだろう。生徒側も5分くらいなら真面目に話を聞けるし、お偉いさんもちゃんと話を聞いてもらえてハッピーだ。win-winとは正にこのこと…

 

 

 

 

 

 

 

そんなわけでハチャメチャな持論を展開してきたんだけど、皮肉なことに、このブログは1600字を超えている。真っ先にパワポを用いるべきなのは、来賓挨拶で登壇してくるお偉いさんじゃなくて、僕のほうなのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

脱クズ学生の方法を真面目に考えてみた

僕は、自他ともに認めるダメな人だ。寝坊するのは日常茶飯事だし、昼夜は逆転するし、おかげさまで年間で10単位を落とした。

 

 

 

 

 

「お前が大学いるの珍しいな」

 

「えっ授業来たの!?なんかあった?」

 

 

 

 

ただ大学に行っただけでレアキャラ扱いされるんだから、いいポジションかもしれない。そもそもの期待値が低いと、ちょっと頑張っただけで過剰に褒められるとはまさにこの事だ。きっと同じような境遇の大学生は一定数いるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

本人のあっけからんとした態度とはうって変わり、親や地元の友達からは心配の目を向けられる。そんな我々「ダメ人間」でも、ダメなままできっちり単位を取り、今までのように遊べる「ちゃんとした大学生」になる方法が、一つだけあると思う。

 

 

 

 

 

「目標をあらゆる場面で宣言する」

 

 

 

 

これだ。

 

 

 

 

 

 

具体例を挙げて説明していく。

 

 

 

冒頭に述べたとおり、自他ともに認める堕落野郎は大晦日、唐突な危機感を覚えた。このままじゃまずい、と。そして元旦、こんなツイートをするに至る。

 

 

 

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文字に残る形で言ってしまった手前、僕は強制的に本を100冊読むという行動を「とらなければ」いけない。宣言によって「めんどくさいからいいや」という退路は断たれて、勝手に背水の陣になっているのだ。すぐさまGoogleで大学生にオススメの本を調べて、100冊リストアップした。そして3/16現在、20冊の本を読破している。順調だ。

 

 

 

 

 

「ものごとそんなに上手くいかねーよ」

 

 

 

 

 

そう思ったそこの君。目標を宣言すると何が変わるか、論理的に説明してみせよう。

 

 

 

「○○する!」と言いまくり、SNSにも書き込む。するとまず、自分の中で意識が変わる。

 

 

 

 

「言った以上やらなくちゃ…」

 

 

 

 

以前の記事で、「行動を起こすには慣性がかかる」という話をしたけど、宣言することによって最初の行動に移りやすくなる。つまり、振り子が動き出したらそのあとは慣性で動き続けるように、僕らも一旦行動を起こせば、意外と続けられる。その最初の行動を無理にでも「自分に」起こさせるのが宣言という方法だ。

 

 

 

次に、宣言をすると情報が集まってくる。この間僕は「大学2年次の目標」と銘打って記事を出したけれど、それに対して数人の友達から反応があった。

 

 

 

「これとこれ俺もやりたいから、一緒にやろうぜ」

 

「今度麻雀おしえるよ!」

 

 

 

みたいなものだ。ネット上に残る形で発信すると、誰かしらは見ている。実際にリプライが飛んでくると、人を巻き込んだ話に発展するわけだから、行動に起こす確率はだいぶ上昇する。

 

 

 

 

僕の友達の1人に、普段はふざけているのに、家ではしっかり勉強したり本を読んだりして、ちゃんと単位と資格を取っているやつがいる。それをほとんど表に出さないところがすごいし、尊敬している。僕のように意志が弱くて、勉強なんてしたくない!っていう種類の人間に、そんな芸当はできない。でも、「ダメだダメだぼくってなんてダメなんだ」って思い詰めるんじゃなくて、ダメという性質を逆手にとって対策を練ってみると、意外な突破口が見えてくるもんだ。そうすると、面白味が出てきて、あとは勝手にワクワクして勝手に続けられる。

 

 

 

 

 

 

今年もダメなまま、面白いと思うこと「だけ」をやって生きていく。面白いかつまらないかを決めるのは、すべて自分次第だ。

 

 

 

 

 

8回目の3.11に思うこと

今日は3月11日だ。震災から数えて8回目。昨晩から降っていた雨は、14:46が近づくとピタッと止んでいた。あの日と同じような曇天模様だな、とふと思う。

 

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テレビをつける。”あの日を忘れない”みたいなテーマで、「今年も」報道特集が組まれている。

 

 

 

 

毎年毎年ご丁寧に。さも3.11に思い出したかのように報道するんじゃなくて、毎日報じろよ、芸能人のゴシップネタの時間削って。

 

 

 

 

そんなことを心の中で毒づく。でもそれは「3.11」のことだからそう思うんであって、沖縄の米軍基地問題では沖縄の人が僕と同じことを思っているのかもしれない。きっとそうだろう。人間の思いはどうしても主観から形成されるから仕方ないと思う。

 

 

 

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あの日小学生だった僕は、大学生になった。

 

 

 

ひとつ、震災で忘れられないエピソードを紹介しようと思う。

 

 

 

 

それは震災後、最初の夏休み明けだった。「夏休みの思い出を描きましょう」という図工の授業。僕の親友が、福島の自然を書いた。青々ととした森、どこまでも流れていきそうな川。ちょうど下の写真みたいな感じだった。そして彼の作品には、こんな題名が付けられていた。

 

 

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「げんぱつがよごしたふくしまのしぜん

 

 

 

 

思い返せば、震災が子供たちの心に残した深いキズを、ストレートに形にしたものだったのかもしれない。当時僕たちは、みんながマスクを付けて登校していたし、体育の授業前には放射線量を測定していた。そして、各家庭には事故当時に配布されたヨウ素剤があった。

 

 

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以前もブログに書いたけれど、僕たちは伝え続ける義務がある。小学五年生だった僕らは、何を見て、どう感じていたのか。10円の支援になるから、Yahooで「3.11」と検索する。それも立派なことだ。でも、もっと大切なのは、周りの友達に、先輩や後輩に、そして大人たちに当時の状況と、現在の福島をきちんと発信することだ。避難区域が徐々に狭まっていること、福島のコメは全袋検査されているから安全なこと。福島出身の僕らが「当たり前」と思っていることの多くは、関東では全然知られていないことが多い。

 

 

 

 

 

話が飛んで戻るが、今日公共の電波に乗って放映されている報道特集に対して、僕が違和感を抱くのは、テレビ局側の歪んだ姿勢が見え隠れするからだ。

 

 

 

 

 

「被災者に対する同情」

「これを伝えればいいんでしょ」

 

 

 

 

画面に映し出される方々には、1ミリも罪はない。実際に未だ苦労している人たちはいるし、震災関連死が問題になっているのも事実だ。でも、マスメディアが彼らを過剰に 「可哀想」 と思わせていないか。そう受け取られるように作っている気がしてならない。そんな薄っぺらいマスメディアの姿勢が、透けて見えて嫌いだ。

 

 

 

 

 

 

これは、僕自身の偏見で、曲がった捉え方かもしれない。だから、皆さんは周りにいる東北三県出身の人に、震災の話を聞いてみてください。テレビでは報道されていない真実が、きっとそこにあります。