灼熱のかげりに誘われて (No.014)
この時期に、「寝苦しい夜」の文字列はもはや相応しくないだろう。19時には暗い空。ヒグラシの鳴き声のない夕方。服にまとわりつかなくなった汗。
夏はすぐ来て、すぐ終わる。
大手予備校のキャッチフレーズにこんな謳い文句があったことをふと思い出し、ああその通りだと、夏も終わりかけの今になって気づく。僕は、そんな長いようで短いこの季節を、精一杯生きられたのだろうか。7日間という僅かな生涯しか与えられていないセミには敵わないかもしれない。
それでも、テスト終了の解放感にかまけて飛び込んだ由比ヶ浜の海に始まる、灼熱と隣り合わせのありとあらゆる記憶は、ちゃんとシナプスにぶち込まれているようで、打ち寄せては引いていく。
夏の訪れは、雨上がりの草木の匂いと蒸し暑さ、けたたましいセミの声が運んでくる。逆に夏の終わりと秋の訪れは、いったい誰が知らせてくれるのだろう。どんどん早くなる日没や、弱くなったアスファルトからの照り返しだろうか。
まるで背後からそっと消えてしまうかのような去り方をする夏は、8月の延々に続く酷暑へのせめてもの罪滅ぼしかもしれない。そして秋は、代わってそっと姿を現す。夏の始まりには敏感で、決まってザワつく人間たちに気づかないように、知らぬ間に訪れる。
「もし、過去に戻れるならいつに戻りますか?」
こんな質問への満点回答は、
「もう一度全く同じこの夏をやり直したい」
に違いない。
寝苦しい夜は嫌いだし、少しの外出で汗が滲むTシャツも、みんな好きなわけがない。それなのになぜなのか。夏の始まりに感じる、堪えようのない、身体の内側から溢れ出る高揚感。
きっと、夏の肥大化が顕著な人間の感性ゆえ。だからこそ、歌の中ではひと夏の恋とか夏の儚さとか、使い古されたフレーズが毎年、飽きるほどに歌われるのだ。
そんなことをウダウダと考えて、ブルーライトに照らされる午前5時。眠れないからといって、こうして冗長な徒然草の下位互換みたいな、まとまりのない文章を書いていられる日々も、もう残り少ない。明け方を迎えた東京の朝は、昨日よりまた幾分か涼しい気がした。