大学受験必要論

今年も、入試シーズンが終わりに差し掛かっている。花粉の飛来は、同時に笑顔と涙も運んでくるのだ。母校の職員室前に掲示された、合格者の名前を掲げた木札も、そろそろ一掃されて新しくなる頃だろう。

 

 

 

 

 

僕は受験をひと段落させた後輩たちに、決まって問いかける言葉がある。

 

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「大学受験は、必要だと思う?」

 

 

 

 

 

賛否両論だろう。センター試験は2年後に新テストに移行されるし、脳科学者の茂木健一郎氏は偏差値教育を徹底的に叩いている。ホリエモンに至っては、大学は必要ないとまで言い放つ。だがそれは、あくまで官僚や、知識人といった、「俯瞰」の目で見た視点からの発言だ。実際に受験を戦った後輩たちは、決まって別の言葉を口にする。

 

 

 

 

 

「辛かったけど、いい経験になりました」

「受験は必要ですよ」

 

 

 

 

現実として、何万人という母集団にぶち込まれて、偏差値とか合格判定という無機質なデータと格闘してきた彼らの言葉には、重みがある。今日は、「大学受験必要論」を唱えたい。僕がこう考える、その理由は結局のところ、1つに帰着してくる。

 

 

 

 

「入試で得た知識は、その後の知的好奇心のベースになる」

 

 

 

 

これは先輩が言っていた、「専門性を高めることが普遍性に繋がる」ということの逆に聞こえるかもしれない。けれど、2つの論理は密接に結びつきがある。僕は、大学受験を通して現代文、古文、漢文、数学、英語、日本史、倫理政経、化学基礎、生物基礎を学んだ。センター試験で使うから。入試で使うから。理由は基本的にそれだけ。(英語と数学と日本史は好きだったけど)

 

 

 

 

 

正直言って、加法定理は日常生活でお目にかからないし、係り結びだって役に立ったことは一度もない。それでも大学生になって、あのとき勉強しといて良かったなって、度々感じる。例えば、友達に何かを説明するとき。複雑な揉め事を、モデルとして単純化して説明すると、相手もスパッと理解してくれる。これは数学で学んだ論理的思考が活きている。ニュースで日韓関係が取り沙汰されていれば、かつて日本が国際連盟を脱退した時の外交戦略が頭をよぎったりする。これは当然、日本史の知識。例をずっと挙げていてはキリがないのでこの辺にするけど、大学受験で培った「知識」は意外と生活する中の「思考」に入り込んでいるわけだ。

 

 

 

 

 

 

人間、「知らないことを知らない」と自覚するのは難しいんだけど、逆に言えば「知っている」人は情報をキャッチして、自分なりに理解するというアンテナが高くなる。このアンテナをいかに高く張ることができるかは、大学受験の段階でどれだけ「背景知識」となる勉強に取り組んだかが大きなウェイトを占める。

 

 

 

 

 

つまり、大学受験で一生懸命勉強すると、その後の生活において様々な知的好奇心が湧き、アンテナが高い状態を作れる。そしてその先に大学で学ぶ学問の専門性が見えてくる、というわけだ。よって大学受験は必要。

 

 

 

 

 

 

 

 

きっとこう言うと、色んな反論が飛んでくるだろう。「いやいや大学受験しなくても高校で授業は受けるじゃん!定期テストもやるじゃん!」

 

 

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まあそうなんだけど、受験に挑むと決めた高3生は、「勉強しないと後がない(大学に行けない)」という圧倒的な危機感が先立つ。危機感を持った彼らは、自ら「理解しよう」「解けるようにならなきゃ」という主体的な学びを始めるわけだ。考えて見て欲しいんだけど、高1、高2のうちから、学校の授業に、それほど圧倒的な危機感を持って臨む生徒は何人いるだろうか。少なくとも僕は見たことがない。受動的な学びと、主体的な学びを比べたとき、定着度は当然ながら歴然とした差になって出てくる。定着度は当然、後々忘れたあと、もう一度思い出して、シナプスがビビっと繋がる瞬間があるか否かの差にもなってくると思う。これは定期テストをバカにしたり、授業をバカにしてるんじゃなくて、「危機感」というある意味本能的な衝動があると違ってくるという、客観的な事実だ。(まあ僕は定期テスト期間中遊びまくってたツケで受験せざるを得なかったから、偉そうなこと言えないんだけど…)

 

 

 

 

 

 

 

あと予想される反論としては、「茂木健一郎とかホリエモンの主張は間違ってんの???だってあの人たち頭いいよ??」みたいなやつ。

 

 

 

 

 

僕らは彼らの言葉の端々だけを切り取りがちで、要は「揚げ足をとりがち」だ。いい意味でも悪い意味でも。彼らの発言を考えるときに、忘れてはいけないことが、「茂木健一郎ホリエモンも高学歴」ってこと。これは学歴偏重主義とかじゃなくて、彼らは「前提となる知識は、当然あるものとして」発言してるってことだ。前提知識があって、自らのキャリアを振り返ると、という注釈を付けてもう一度彼らの発言を見てみよう。見え方は変わってくるはずだ。

 

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兎にも角にも、とりあえずおつかれ後輩たち。キツかったと思うけど、この経験は必ず糧になる。