人間天涯孤独論

僕は哲学科じゃないし、哲学の本をまともに読んだ経験もない。それでも人間天涯孤独論を唱えたいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

僕には私には、友達がいるよ!ってみんな反論するだろう。でも考えてみてほしい。かつて仲良かった友達と、いまも連絡を取っているか。小学校の頃の親友。中学の頃の部活の仲間。大学で離れ離れになった受験生時代の戦友。実際のところ、大してコンタクト取ってない人が大多数だろう。その意味で、友達は一過性の関係なのかもしれない。「友達100人できるかな」よりも難易度が高いのは、「友達何人残るかな」のほう。これは間違いない。今現在ではコンタクトとってる昔の友達とも、きっといずれ、会わなくなって、LINEしなくなって、年賀状だけのやり取りになって、最後にはなんの便りもなくなる。あの頃はあんなに仲良かったのに、だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

家族がいるよ!という反論。愚問だ。家族もいずれ命が尽きて、煙になる。それを強く自覚したのは、母の病だった。僕が高3のとき、母は肝硬変になった。トイレで血を吐いて倒れた。たしかセンター試験の4日後だった。医者は、平均余命10年と宣告した。退院して初めて顔を合わせたとき、母の顔は前より明らかに痩せこけていた。無条件に死を意識させられる瞬間だった。それ以外の何物でもない。カブトムシを夏になる度に持ってきてくれた親戚のじいちゃんは、しばらく顔を見ないと思っていた矢先、訃報を知らされた。棺桶に眠るその姿を、僕は直視出来なかった。僕が小学生の頃、毎年夏になると、あんなに笑顔で、「鬼虫持ってきたど!!」と言っていたのに、もう動くことはない。信じられなかった。同時に思った。人間は死ぬとき、ひとりなんだと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

他人は、自分が思っているほど、自分に興味がない。そんな言葉をどこかで見た。自分に対して向けられた他人の視線が少ない。それはある意味、人は1人で生きているということの証明なのかもしれない。アリストテレスもこう言った。

 

 

 

 

 

幸福は、自足的でなければいけない。

 

 

 

 

 

だとすれば、他者の存在とはなにか。最後は孤独のうちに、ひとりで死んでいく人間。その数の分だけ人生というストーリーがある。そのストーリーのワンカットの中では、人は孤独じゃないはずだ。父に抱きかかえられた姿。仲間と笑い合う姿。夫婦で寄り添い合う姿。それでも、人間は孤独を捨てられない。ストーリーは過去で、死はその瞬間の現実だからだ。

 

 

 

 

 

 

 

自分という主体が考えることは、他人に100%伝わることはない。以心伝心という言葉があるけれど、それはある特定の分野における、ある特定の所作に限られたものでしかない。パスカルの言う通り、「人間は考える葦である」のならば、考えているその行為と、それによる行動は、本人の意思が決定づける。他人に影響を受けることはあっても、決定するのは主体たる自分だ。決定というその行為自体に他者は介在しない。

 

 

 

 

 

 

 

それでも思う。他者は人生において必要不可欠だ。人間が孤独であるという仮定が成り立つなら、本能的に孤独を嫌うはずだ。誰かを妬むのも羨ましがるのも、自分にはない何かを「相手」という他者が持っているからであり、このとき主体である自分が他者の存在を意識している以上、孤独ではない。そして独りでずっと居ると「寂しい」という感情が露呈してくるのも、人間が本能的に孤独を嫌っているからと帰着できる。孤独に耐えられなくなって線路に飛び込む自殺志願者は、いや飛び込んでいるのだから自殺遂行者は、きっと失業やいじめによって、孤独感を極限にまで高めてしまって、フラフラと黄色い線を踏み越えるのだろう。意思は媒介されていない。ただ普通に歩くように、フワッとホーム下へ飛ぶのだと思う。あいみょんも歌っていた。

 

 

 

最後のさよならは他の誰でもなく、自分に叫んだんだ

(生きていたんだよな)

 

 

 

こんなふうに、人間が孤独を本能的に嫌う生物である以上、他者という存在は必要不可欠だ。

 

 

 

 

 

 

 

友達も家族も、一過性の存在だからこそ大切にしなければいけない。生きている以上、いつかありありと実感を伴って直面する、死という機会。そのとき誰しもが孤独という巨大で無慈悲な怪物と戦わざるを得なくなる。この瞬間において、心の支えとか、勇気になりうるのは、今まで同じ時間を「共有」してきた他者の存在なのかもしれない。そう考えると、人間は孤独であるけれど、結果として他者に依存している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いま健康体でいる僕らにできることは、精一杯「生」を全うすることと、自分の周りにいてくれる他者に、友達に、恋人に、大きな感謝の念を持って、それをきちんと伝え続けることなのかもしれない。