初春

3月になった。はい拍手。昨日、一日中降っていた、2月の終わりを告げる雨は止んでいた。ベランダに出ると、春らしい甘ったるい暖かさに包まれた。そうか、もう3月だ。

 

 

 

 

元号の発表も、大学2年へのカウントダウンも刻々と近づいている。今そんなことはどうでも良くて、もっとどうでもいいことの方が、もっぱら大切だ。立川のBECK’S Coffeeに初めて入ったのは去年の3月で、母が吸うタバコはパーラメントで、その横で僕は南武線の電光掲示板をぼんやり眺めていた、とか。わざと1年前と同じ窓際の喫煙席に座る。今日も南武線は元気に運行していたし、行き交う人々はいつもより早足に見えた。3月だから浮き足立ってるのかもしれない。

 

 

 

 

ストーリーを撮ろうと思ったけど、スマホを取り出してやめた。このなんとも言えない懐かしさと恋しさと、言葉にできない自分の中のエモさを、粗めの画質に閉じ込めて投げたところで、なにも起こらない。1時間後になんか違うと思って消すのが目に見えている。Instagramは人間の背景までは映し出してくれない。あるひとつの感情を、もしくは無感情を、完膚なきまでに切り取るだけだ。そんな無慈悲さが欲しいときもあれば、これ以上なく見たくない日もある。

 

 

 

 

 

東京は、美しくて残酷だといつも思う。西東京であろうと、ちょっと足を伸ばせば都会に出られる。ハイペースでホームに到着する電車。美辞麗句が並ぶ看板。綺麗な装飾が施されたatreも、GRANDUOも。残酷だ。美しさの裏側にびっしりと張り付いているのは、なんだろうと考える。市ヶ谷の地下通路とか、新宿西口で寝泊まりをする人たちの姿か、それとも歌舞伎町でベロベロに酔っ払って、京王線で眠りこけるサラリーマンか。いや全部だ。白鳥が水面下で必死に脚をバタバタ動かしているみたいに、東京の綺麗さは、あらゆる人間のもがく姿から成り立っているのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

立川のBECK’S Coffeeで通路を空けてくれた店員さんの笑顔が綺麗だった。ちょっとだけ幸せになった。東京に呑まれないで足掻くためには、等身大を忘れないことが打開策なのかもしれない。帰省しよう。きっと生暖かい気温もNEWDAYSもないし、相変わらずドトールは高校生入店禁止だ。その代わり、有り余るほどの訛りと綺麗な星空が待っている。