Fukushimaと原発事故

福島=原発。これは、2019年現在、ほとんどの日本人が持っているであろうロジックだ。いや、世界的に見ても、「Fukushima」は原発事故の場所として有名になっている。

 

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僕は福島で生まれ、福島で育った。そうである以上、他県出身の人にも、伝える義務があると思った。

 

 

このブログでは、

 

 

 

  1. 震災前の福島と原発
  2. 震災と原発事故
  3. 原発とその周辺の現状

 

に分けて、福島で一体何が起きていたのか、起きているのかについて知ってもらいたい。僕自身、専門家ではないため、多少の誤りは大目に見てほしい。また、知る機会がなかったことは致し方ないが、きっかけがある以上、このブログを読むことは必須になる。あなたが今日も東京電力管轄の、原発で作られた電気を使って生活している以上は。

 

 

 

 

1 .  震災前の福島と原発

 

 

福島には、東京電力管轄の原子力発電所が2つあった。福島第一原発福島第二原発。第一原発は、1971年に運転が開始された。原発の周辺地域には、多額の交付金が与えられ、地元経済の活性化に大きく貢献した。また、原子力発電所による雇用の創出も大きく、いわゆる 「原子力産業」 の恩恵を享受していた。

 

今では皮肉になってしまったが、そのことを象徴的に表わす写真が以下。

 

 

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また、僕がまだ小学生だった頃には、地元ローカルのテレビ局で、福島第一原発のCMがよく流れていた。

 

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たしかこんな感じだったと思う。

 

 

とにもかくにも、福島と原発は密接な関係で繋がっていた。しかし、震災前の県民の中には、危険を提唱する者などおらず、それどころか原発があることを疑問視する視点すらなかった。それほどに、「当たり前」の存在であったのだろう。

 

 

 

 

2 .  震災と原発事故

 

 

忘れもしない2011.3.11。東日本大震災福島県も、沿岸部を中心に震度6を超える揺れに襲われた。

 

 

 

この時点で、原発は壊れていない。原発は震度6の揺れに耐えた。

 

 

 

 

 

次に起きた大津波が、原発と、福島県民を翻弄する惨劇の引き金となった。

 

 

 

 

 

原発は、簡単に説明すると次のようなメカニズムである。

 

 

核分裂によって発生する熱を利用して蒸気を発生、噴射し、その力でタービン(羽みたいなの)を回して発電する」

 

 

 

 

ではなぜ、事故が起きたのか。

 

 

 

原子力発電の際に使用される核分裂反応は、熱を伴う。そのため、常に機械によって管理され、充分に冷却が行われなければいけない。

 

 

 

 

しかし、地震津波によって原発は電源を失った。非常用電源と呼ばれるものも、最悪なことに津波で水没。原発は冷却不可能に陥ったのだ。この状態を、「全電源喪失」という言葉でテレビが伝えた。

 

 

電源喪失の段階で、多くの県民が危機感を覚えたかは定かではない。しかし、少なくとも僕の両親は

 

 

 

原発がなにかヤバいことになっている」

 

 

 

という認識はあったようだ。幸運にも停電を免れていた僕の家では、父が必死にパソコンでなにかを調べていた。きっと「全電源喪失」がどういう事態で、何がヤバいのかを把握しようとしていたのだと思う。

 

 

電源喪失に陥った福島第一原発について、当時の枝野官房長官は、会見でこう繰り返していた。後々、全くの嘘であったことが判明し、強い憤りを感じた言葉だったので、今でも覚えている。

 

 

 

「皆さん、原発は大丈夫ですから、どうか落ち着いて、落ち着いて行動してください。」

 

 

 

 

本当は、何一つ大丈夫ではなかった。当時の東電会長、勝俣や社長の清水の方針で、「メルトダウン」との言葉を避け、事実と異なる「炉心損傷」とウソを垂れ流していたに過ぎなかった。

 

 

原発を冷却するため、何台も、長い首を持つ消防車が送り込まれて水を放出していたし、ヘリコプターが水槽のようなものを吊り下げて、海水を汲んで空から撒いていた。それでも冷却には微々たる効果しかなかった。

 

 

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原発の格納容器に入っているウランなどの核は、どんどん熱を帯びて溶け、メルトダウン(炉心溶融)が起きた。これは、冷却系統がダメになることで、核燃料が溶けだしてしまうことを言う。かつて史上最悪の原発事故と言われたチェルノブイリ原発事故でも、同じ現象が起きていた。

 

 

 

 

悲劇は、これだけでは終わらない。

 

 

 

メルトダウンの発生により、水素ガスが発生したのだ。水素ガスが空気に触れれば、水素爆発を引き起こす。

 

 

 

 

そして、3月12日に一号機が、3月14日に三号機が、それぞれ水素爆発を起こした。なかでも三号機の水素爆発は激しく、空気中に大量の放射性物質がばらまかれた。この時、風向きは北西。放出された汚染物質は、風に乗り、そして地上へ降り注いだ。

 

 

 

 

僕の地元は、原発から南に50キロ程の場所にある。もし、当時風が南向きに吹いていたら、放射性物質により汚染されたのは、僕の生まれ故郷だったかもしれない。この言い方は正しいか分からないが、当時、情報が錯綜するなか、人々は運命のいたずらに左右されてしまったのだ。

 

 

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原発事故により地上へ降り注いだ放射性物質は、避難を必要とするレベルのものだった。一般的に、地上の放射線量は0.09マイクロシーベルトくらいだ。しかし当時は、5.75マイクロシーベルトとかが普通に伝えられていた。場所によっては、30マイクロシーベルトを観測したとも伝えられた。いかに異常な、ありえない状況であったかが分かると思う。僕の地元でも、高いときには3マイクロシーベルトを観測していたことを覚えている。

 

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これが、原発事故の一連の流れだ。当時、福島県民の中には、政府の狂ったような「アンゼン、アンゼン」の言葉に不信感と不安を持ち、また、原発から30キロ圏内の住民への避難を呼びかける報道を目の当たりにして、自主避難を行った人たちも大勢いた。僕も、両親、妹や祖父母と共に、山形の親戚の元へ一時的に避難した。

 

 

 

 

 

冷蔵庫の中身を捨てるなどという余裕は残っておらず、3週間後に父と祖父が家へ戻った際には、冷蔵庫から凄まじい異臭がしたという。また、街もゴーストタウンと化しており、街の大通りには、人はおろか、車の姿すらほぼ見当たらなかった。福島は、得体の知れない、目に見えない物質への恐怖に晒されていたのだ。

 

 

 

 

 

 

3.  原発とその周辺の現状

 

 

原発は、現在廃炉へ向けて計画的に作業が進められている。チェルノブイリでは、原発自体をコンクリートで固める「石棺」というやり方がとられた。しかし、福島第一原発では水で中を満たす「水棺」が打ち出されている。

 

 

 

 

しかし、原発事故は終わったわけではない。むしろこれからの方が長い。

 

 

 

 

廃炉計画は、30年かかると言われている。原発事故は、これからの方がずっと長いのだ。そして、現在新しい問題も取り沙汰されている。原発事故によって故郷を追われた人々への賠償金の問題。原発作業員が生活する場所における、治安の悪化などだ。

 

 

 

 

福島では、街の至る所に「モニタリングポスト」と呼ばれる線量計が設置されている。福島育ちの僕はもはや見慣れてしまったのだが、冷静に考えると異様な光景だ。さらに、モニタリングポストの数値、及び原発周辺、海水から放射性物質が漏洩していないかは、毎日天気予報とセットで報道されている。

 

 

 

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「今日の放射線量です。」

 

 

 

アナウンサーが毎日発するこの言葉の裏側にベッタリと貼り付いているのは、まだ原発事故は終わっていないという悲痛な叫びなのかもしれない。しかし、この言葉が届いているのは福島県内だけだ。

 

 

 

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一連の長い文章を拝読してもらってありがとう。これを機会に、原発に賛成か反対か、よく考えてみて欲しい。これは、日本全体で考えるべき問題なのだ。

 

 

 

 

 

 

もしそれでも、「原発?東電?どうでもいい。いま自分が生活できてるから知らない」 と切り捨てる人間がいるとすれば、そういう方には、是非一度、福島県においでいただきたい。そして、福島県民の目の前で、もう一度大声でそう言ってもらいたい。