考える前に動く

大学生にとって、めちゃめちゃ大切なことのひとつに「フットワークの軽さ」があると思う。入学したての頃とかは、どのくらい出費すると食べていけなくなるか未知数だったから、だいぶフットワークが重かった。

 

 

 

 

反対に後期の僕は、傍から見たら気が狂ったとも取られかねないフットワークの軽さだったと思う。

 

 

 

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「今日ダーツ行かね?(25:13)」ー「いいよ、15分後にお前んちいくわ(25:15)」

「いま高幡で飲んでんだけど来る?」 ー「カテキョ終わったら行きます!どこですか?」

「店ヒマだから立川来てくんね?」ー「40分後に着きます」

「カメラ欲しくね?」 ー 「買ったら?」  (3日後Amazonから届く)

 

 

 

 

 

フットワークが軽いっていうか、ほとんど二つ返事でどっかに行くし、なんか買う。オススメはしないけど衝動のままに動くのをクセにして後期は過ごしてた。まあ何も考えてないと言われればそれまでなんだけど、「10秒の法則」ってのに当てはめると、意外と脳ミソ空っぽじゃなかったり?する。

 

 

 

 

 

 

 

「10秒の法則」を簡潔に説明すると、人間は10秒あるうちに、出来ない理由とかを無意識に探して、自分の中で釣り合いを取ろうとする。逆に言えば、10秒以内に即決断すれば、後に引けない状況になって、あとは慣性みたいに動ける、という論理。

 

 

 

 

これをそのまま当てはめると、上の二つ返事もどこか論理的に見えてくる、かもしれない。なんていうか、せっかく打席に入ってストライクの球来たのに、それを見送り続けるのは勿体ないよね、とりあえず打てそうな球は全部振ろうぜ、が僕の行動原理。ほら、長嶋茂雄も「人生のバッターボックスに立ったら、見逃し三振だけはするなよ」って言ってたし。

 

 

 

 

 

例えば、予定は空いてたけど「なんとなく」誘いを断ったら、何が起きるだろう。その誘いをしてくれた人の意外な一面とか、新しい友達ができるとか、経験ができるとか、あらゆる可能性が0のままだ。0には何をかけても0。

一方で、「行きます!」と言った場合。新たなことが起きる可能性は、たぶん3くらい。でも3は何かをかけたら、6にも、9にもなっていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自分から動かないと、なにも始まらない。考える前にまず動け。僕はバカなので、カメラ買いたすぎて友達に借金したし、本もその場で衝動買いしちゃう。でも後悔したことはないし、むしろ「お金を投資したから」続けないと!という切迫感が出てきていいとさえ思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

オススメはしないけど、辞めたほうがいいぜとも言いません。この生き方悪くねえ!と思ったらとりあえずいま、この瞬間にブラウザバックして僕に「いいじゃん!」ってリプライ送ってください。10秒以内に。それができたらあなたも、「考える前に動く」生き方へ、確実に踏み出してます。

 

 

 

 

 

 

大学受験必要論

今年も、入試シーズンが終わりに差し掛かっている。花粉の飛来は、同時に笑顔と涙も運んでくるのだ。母校の職員室前に掲示された、合格者の名前を掲げた木札も、そろそろ一掃されて新しくなる頃だろう。

 

 

 

 

 

僕は受験をひと段落させた後輩たちに、決まって問いかける言葉がある。

 

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「大学受験は、必要だと思う?」

 

 

 

 

 

賛否両論だろう。センター試験は2年後に新テストに移行されるし、脳科学者の茂木健一郎氏は偏差値教育を徹底的に叩いている。ホリエモンに至っては、大学は必要ないとまで言い放つ。だがそれは、あくまで官僚や、知識人といった、「俯瞰」の目で見た視点からの発言だ。実際に受験を戦った後輩たちは、決まって別の言葉を口にする。

 

 

 

 

 

「辛かったけど、いい経験になりました」

「受験は必要ですよ」

 

 

 

 

現実として、何万人という母集団にぶち込まれて、偏差値とか合格判定という無機質なデータと格闘してきた彼らの言葉には、重みがある。今日は、「大学受験必要論」を唱えたい。僕がこう考える、その理由は結局のところ、1つに帰着してくる。

 

 

 

 

「入試で得た知識は、その後の知的好奇心のベースになる」

 

 

 

 

これは先輩が言っていた、「専門性を高めることが普遍性に繋がる」ということの逆に聞こえるかもしれない。けれど、2つの論理は密接に結びつきがある。僕は、大学受験を通して現代文、古文、漢文、数学、英語、日本史、倫理政経、化学基礎、生物基礎を学んだ。センター試験で使うから。入試で使うから。理由は基本的にそれだけ。(英語と数学と日本史は好きだったけど)

 

 

 

 

 

正直言って、加法定理は日常生活でお目にかからないし、係り結びだって役に立ったことは一度もない。それでも大学生になって、あのとき勉強しといて良かったなって、度々感じる。例えば、友達に何かを説明するとき。複雑な揉め事を、モデルとして単純化して説明すると、相手もスパッと理解してくれる。これは数学で学んだ論理的思考が活きている。ニュースで日韓関係が取り沙汰されていれば、かつて日本が国際連盟を脱退した時の外交戦略が頭をよぎったりする。これは当然、日本史の知識。例をずっと挙げていてはキリがないのでこの辺にするけど、大学受験で培った「知識」は意外と生活する中の「思考」に入り込んでいるわけだ。

 

 

 

 

 

 

人間、「知らないことを知らない」と自覚するのは難しいんだけど、逆に言えば「知っている」人は情報をキャッチして、自分なりに理解するというアンテナが高くなる。このアンテナをいかに高く張ることができるかは、大学受験の段階でどれだけ「背景知識」となる勉強に取り組んだかが大きなウェイトを占める。

 

 

 

 

 

つまり、大学受験で一生懸命勉強すると、その後の生活において様々な知的好奇心が湧き、アンテナが高い状態を作れる。そしてその先に大学で学ぶ学問の専門性が見えてくる、というわけだ。よって大学受験は必要。

 

 

 

 

 

 

 

 

きっとこう言うと、色んな反論が飛んでくるだろう。「いやいや大学受験しなくても高校で授業は受けるじゃん!定期テストもやるじゃん!」

 

 

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まあそうなんだけど、受験に挑むと決めた高3生は、「勉強しないと後がない(大学に行けない)」という圧倒的な危機感が先立つ。危機感を持った彼らは、自ら「理解しよう」「解けるようにならなきゃ」という主体的な学びを始めるわけだ。考えて見て欲しいんだけど、高1、高2のうちから、学校の授業に、それほど圧倒的な危機感を持って臨む生徒は何人いるだろうか。少なくとも僕は見たことがない。受動的な学びと、主体的な学びを比べたとき、定着度は当然ながら歴然とした差になって出てくる。定着度は当然、後々忘れたあと、もう一度思い出して、シナプスがビビっと繋がる瞬間があるか否かの差にもなってくると思う。これは定期テストをバカにしたり、授業をバカにしてるんじゃなくて、「危機感」というある意味本能的な衝動があると違ってくるという、客観的な事実だ。(まあ僕は定期テスト期間中遊びまくってたツケで受験せざるを得なかったから、偉そうなこと言えないんだけど…)

 

 

 

 

 

 

 

あと予想される反論としては、「茂木健一郎とかホリエモンの主張は間違ってんの???だってあの人たち頭いいよ??」みたいなやつ。

 

 

 

 

 

僕らは彼らの言葉の端々だけを切り取りがちで、要は「揚げ足をとりがち」だ。いい意味でも悪い意味でも。彼らの発言を考えるときに、忘れてはいけないことが、「茂木健一郎ホリエモンも高学歴」ってこと。これは学歴偏重主義とかじゃなくて、彼らは「前提となる知識は、当然あるものとして」発言してるってことだ。前提知識があって、自らのキャリアを振り返ると、という注釈を付けてもう一度彼らの発言を見てみよう。見え方は変わってくるはずだ。

 

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兎にも角にも、とりあえずおつかれ後輩たち。キツかったと思うけど、この経験は必ず糧になる。

 

 

 

 

 

 

大学2年次の目標

教習所通いは暇すぎるし、花粉で目は四六時中痒いし、金髪に人権はないし、東京に帰りたいので大学2年次の目標をつらつらと決めた。

 

 

1.一日一枚、写真を撮る

2.春夏秋冬、綺麗な場所で綺麗な人を撮る

3.人の笑顔を撮る

4.東京を撮る

5.山手線全駅で写真を撮る

6.一日に何本も映画を観る自堕落な生活

7.好きな芸人のライブに行く

8.好きなバンドのライブも行く

9.新宿,渋谷の深夜徘徊

10.青春18切符で旅をする

11.本は直感で買う。レビューは見ない。

12.東京で最高の桜並木を見に行く

13.海の日は海に行く

14.部屋からモノを消す

15.他人に期待しない

16.自分には少しだけ期待する

17.青春18切符で旅をする

18.暇さえあれば本を開く

19.麻雀を覚える

20.ダーツに行く

21.大学に行く

22.友達を増やす

23.嫌なことは徹底的にしない

24.イライラする相手とは付き合わない

25.人の話を聞く

26.哲学書を10冊読む

27.話すためだけに夜更かしをする

28.タクシー運転手のお気に入りの場所に連れていってもらう

29.多摩モノレールを乗り通す

30.Instagramを憎まない

31.話したい相手には話しかける

32.スノボを上達させる

33.喫煙所で知らない人に話しかける

34.スケボーを始める

35.心をすり減らしてまで他人に優しくしない

36.一日中本を読んで過ごす

37.原付で旅をする

38.質問には明確に答える

39.映画を100本観る

40.本も100冊読む

41.夜の東京タワーに行く

42.神保町を散歩する

43.気品のある人間になる努力

44.軽井沢の貸し別荘に友達と泊まる

45.YouTubeで時間を溶かさない

46.TOEIC目標スコアの達成

47.東南アジアに行く

48.以上、なんとなくで生きない

 

 

 

 

 

せっかくだし半分以上は実現する。

 

 

 

人間天涯孤独論

僕は哲学科じゃないし、哲学の本をまともに読んだ経験もない。それでも人間天涯孤独論を唱えたいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

僕には私には、友達がいるよ!ってみんな反論するだろう。でも考えてみてほしい。かつて仲良かった友達と、いまも連絡を取っているか。小学校の頃の親友。中学の頃の部活の仲間。大学で離れ離れになった受験生時代の戦友。実際のところ、大してコンタクト取ってない人が大多数だろう。その意味で、友達は一過性の関係なのかもしれない。「友達100人できるかな」よりも難易度が高いのは、「友達何人残るかな」のほう。これは間違いない。今現在ではコンタクトとってる昔の友達とも、きっといずれ、会わなくなって、LINEしなくなって、年賀状だけのやり取りになって、最後にはなんの便りもなくなる。あの頃はあんなに仲良かったのに、だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

家族がいるよ!という反論。愚問だ。家族もいずれ命が尽きて、煙になる。それを強く自覚したのは、母の病だった。僕が高3のとき、母は肝硬変になった。トイレで血を吐いて倒れた。たしかセンター試験の4日後だった。医者は、平均余命10年と宣告した。退院して初めて顔を合わせたとき、母の顔は前より明らかに痩せこけていた。無条件に死を意識させられる瞬間だった。それ以外の何物でもない。カブトムシを夏になる度に持ってきてくれた親戚のじいちゃんは、しばらく顔を見ないと思っていた矢先、訃報を知らされた。棺桶に眠るその姿を、僕は直視出来なかった。僕が小学生の頃、毎年夏になると、あんなに笑顔で、「鬼虫持ってきたど!!」と言っていたのに、もう動くことはない。信じられなかった。同時に思った。人間は死ぬとき、ひとりなんだと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

他人は、自分が思っているほど、自分に興味がない。そんな言葉をどこかで見た。自分に対して向けられた他人の視線が少ない。それはある意味、人は1人で生きているということの証明なのかもしれない。アリストテレスもこう言った。

 

 

 

 

 

幸福は、自足的でなければいけない。

 

 

 

 

 

だとすれば、他者の存在とはなにか。最後は孤独のうちに、ひとりで死んでいく人間。その数の分だけ人生というストーリーがある。そのストーリーのワンカットの中では、人は孤独じゃないはずだ。父に抱きかかえられた姿。仲間と笑い合う姿。夫婦で寄り添い合う姿。それでも、人間は孤独を捨てられない。ストーリーは過去で、死はその瞬間の現実だからだ。

 

 

 

 

 

 

 

自分という主体が考えることは、他人に100%伝わることはない。以心伝心という言葉があるけれど、それはある特定の分野における、ある特定の所作に限られたものでしかない。パスカルの言う通り、「人間は考える葦である」のならば、考えているその行為と、それによる行動は、本人の意思が決定づける。他人に影響を受けることはあっても、決定するのは主体たる自分だ。決定というその行為自体に他者は介在しない。

 

 

 

 

 

 

 

それでも思う。他者は人生において必要不可欠だ。人間が孤独であるという仮定が成り立つなら、本能的に孤独を嫌うはずだ。誰かを妬むのも羨ましがるのも、自分にはない何かを「相手」という他者が持っているからであり、このとき主体である自分が他者の存在を意識している以上、孤独ではない。そして独りでずっと居ると「寂しい」という感情が露呈してくるのも、人間が本能的に孤独を嫌っているからと帰着できる。孤独に耐えられなくなって線路に飛び込む自殺志願者は、いや飛び込んでいるのだから自殺遂行者は、きっと失業やいじめによって、孤独感を極限にまで高めてしまって、フラフラと黄色い線を踏み越えるのだろう。意思は媒介されていない。ただ普通に歩くように、フワッとホーム下へ飛ぶのだと思う。あいみょんも歌っていた。

 

 

 

最後のさよならは他の誰でもなく、自分に叫んだんだ

(生きていたんだよな)

 

 

 

こんなふうに、人間が孤独を本能的に嫌う生物である以上、他者という存在は必要不可欠だ。

 

 

 

 

 

 

 

友達も家族も、一過性の存在だからこそ大切にしなければいけない。生きている以上、いつかありありと実感を伴って直面する、死という機会。そのとき誰しもが孤独という巨大で無慈悲な怪物と戦わざるを得なくなる。この瞬間において、心の支えとか、勇気になりうるのは、今まで同じ時間を「共有」してきた他者の存在なのかもしれない。そう考えると、人間は孤独であるけれど、結果として他者に依存している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いま健康体でいる僕らにできることは、精一杯「生」を全うすることと、自分の周りにいてくれる他者に、友達に、恋人に、大きな感謝の念を持って、それをきちんと伝え続けることなのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

僕は読書が苦手だ。

僕は小説が読めない。読めないというか、苦手。

 

 

 

ちょっと堅めの本とか自己啓発本と比べて、圧倒的に活字を追うスピードが落ちる。なんでかなって自分なりに考えたんだけど、たぶんこれは受験の弊害。

 

 

 

 

高校生の頃、小説は「現代文」という教科の1つのジャンルだった。設問を先に読み、傍線部に注意を払う。このときの心情は?とか、その理由は?とか考えて、読み取って記述する。3年間でそんなクセが染み付いてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

ゆゆしきことだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

最近意識して小説を手に取るようにしてるんだけど、そのクセが如実に出てしまう。作者が伊坂幸太郎だろうと、三島由紀夫だろうと関係ない。

 

 

 

 

 

 

 

三島由紀夫の「金閣寺」を読んでいたときが一番しんどかったな。中盤、主人公の心理描写や情景描写が難解な言葉と共に著述されていて、それを全部理解しようとしていた。無意識のうちに。

 

 

 

 

 

 

 

マジで何言ってるかわかんねえ。

 

 

 

 

 

 

 

純文学ほぼ読んだことなかったし現代文みたいに読み進めちゃうしまあしんどい。なんとか斜め読みして、ラスト50ページくらいは興奮気味に、クライマックスは音読してしまうほどに作品に没入したんだけど。

 

 

 

 

 

 

 

 

小説を普通に楽しめる人になりたいから、誰かアドバイス下さい。

 

 

 

 

 

初春

3月になった。はい拍手。昨日、一日中降っていた、2月の終わりを告げる雨は止んでいた。ベランダに出ると、春らしい甘ったるい暖かさに包まれた。そうか、もう3月だ。

 

 

 

 

元号の発表も、大学2年へのカウントダウンも刻々と近づいている。今そんなことはどうでも良くて、もっとどうでもいいことの方が、もっぱら大切だ。立川のBECK’S Coffeeに初めて入ったのは去年の3月で、母が吸うタバコはパーラメントで、その横で僕は南武線の電光掲示板をぼんやり眺めていた、とか。わざと1年前と同じ窓際の喫煙席に座る。今日も南武線は元気に運行していたし、行き交う人々はいつもより早足に見えた。3月だから浮き足立ってるのかもしれない。

 

 

 

 

ストーリーを撮ろうと思ったけど、スマホを取り出してやめた。このなんとも言えない懐かしさと恋しさと、言葉にできない自分の中のエモさを、粗めの画質に閉じ込めて投げたところで、なにも起こらない。1時間後になんか違うと思って消すのが目に見えている。Instagramは人間の背景までは映し出してくれない。あるひとつの感情を、もしくは無感情を、完膚なきまでに切り取るだけだ。そんな無慈悲さが欲しいときもあれば、これ以上なく見たくない日もある。

 

 

 

 

 

東京は、美しくて残酷だといつも思う。西東京であろうと、ちょっと足を伸ばせば都会に出られる。ハイペースでホームに到着する電車。美辞麗句が並ぶ看板。綺麗な装飾が施されたatreも、GRANDUOも。残酷だ。美しさの裏側にびっしりと張り付いているのは、なんだろうと考える。市ヶ谷の地下通路とか、新宿西口で寝泊まりをする人たちの姿か、それとも歌舞伎町でベロベロに酔っ払って、京王線で眠りこけるサラリーマンか。いや全部だ。白鳥が水面下で必死に脚をバタバタ動かしているみたいに、東京の綺麗さは、あらゆる人間のもがく姿から成り立っているのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

立川のBECK’S Coffeeで通路を空けてくれた店員さんの笑顔が綺麗だった。ちょっとだけ幸せになった。東京に呑まれないで足掻くためには、等身大を忘れないことが打開策なのかもしれない。帰省しよう。きっと生暖かい気温もNEWDAYSもないし、相変わらずドトールは高校生入店禁止だ。その代わり、有り余るほどの訛りと綺麗な星空が待っている。

これは言い訳なんだけれど

冒頭で何が言いたいかハッキリさせておこう。

 

 

 

 

 

「GPAでマウントをとる人間に、ろくな奴はいない」

 

 

 

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これは僕の持論であり、この論理の対偶にも反例は出てくる。要するに、偏見という粘土に固められたひとつの基準だ。いや、もちろん単位をきちんと取ることはとても大切だ。取らなきゃ卒業できないし…。まあ、この持論は完全に言い訳。最初に言ったので、誰も腹を立てる必要も義理もない。だってこれは言い訳。

 

 

 

 

 

 

 

とりあえず、ちゃんと理由があるので聞いて欲しい。

 

 

 

 

 

大学生にもなって価値尺度が高校生と同じだから

 

 

 

「価値尺度が高校生と同じ」はどういうことか。たぶん読者の中で何人かはこの抽象度でもズバッと理解してくれると思う。きちんと具体性を持って説明する。

 

 

 

高校生まで、いや特に受験生は、自らが判断される基準が偏差値ってものだった。「大学入試」っていうひとつのフレームが戦場で、偏差値という数字がまるで自分という主格の価値を綺麗に反映してるような感覚に陥った。本気で勉強して、メンタル削りながら、それこそ命をすり減らして勉強してると、だんだん視野狭窄に陥るわけ。

 

 

 

 

そんな狭い世界観から脱するのは、大学に入ってから。高校→大学で最もドラスティックに変わるのはその自由度。一人暮らしなら特にそうだ。何時に帰ろうと誰と遊ぼうと、究極的には学校に行こうが行かまいが自由。そんな中で色んな人と出会い、場所へ行き、様々な世界を知る。勉強という尺度は、one of them でしかなかったと発見する。普通は。パレットがどんどんカラフルになっていく感じだね。

 

 

 

 

 

ところが、GPAで人を判断するタイプ。いつまで経ってもパレットには一色しか乗っていない。もしくは、パレットを染め上げるひとつの色が強すぎる。感性が鈍いというか、若者なのに保守的というか、一言で言うと「高校生延長!」みたいな。そういう人はたいてい漫然と、何も考えず講義に出て、テスト勉強とそのスコア以外に自らの優位性を示せない。他人に対して、「いや君俺よりGPA低いじゃん。」と一蹴してdisりまくって終わり。その人が持つ良さ、考え方、感性、世界観、全部無視。世の中はGPAこそが正義で、ヒーロー。そりゃつまらない。

 

 

 

 

 

 

恐ろしいほどの偏見だなと思った人も多いだろう。そう、偏見だ。偏見は、一人の人間の膨大な経験と感情でできている。合ってるか間違っているかは担保できないけど。

 

 

 

 

 

一人の人間の戯言を最後まで読んでくれてありがとうございました。これらは全て、後期10単位落としがほぼ確定しているダメ学生の自己正当化でお送りしました。GPAバンザイ。