なぜ中学生は洋楽にハマりがちなのか

問・一瞬で意味を取ってください。

 

 

設問・We are never ever ever getting back together.

 

 

f:id:watax7710:20190225031514j:image

 

 

 

 

 

解答・もう何があっても絶対にヨリなんか戻さない

 

 

 

 

正解者、ほとんどいないでしょ。だって一瞬で意味取るとか難しいし。

 

 

 

はい、ブラウザバックしないで。

 

 

 

 

 

僕はバイトで主に中学生相手に家庭教師してるんだけど、1つ共通することがある。

 

 

それは、

 

 

 

「中学生、洋楽にハマりがち。」

 

 

 

 

全ての事象には原因があって、結果がついてくる。この一見疑問を呈す必要のない傾向にも、きっと原因がある。彼らは、洋楽を崇拝し、邦楽はクソとまで言い放つ。まるでTaylor Swiftが、AVICIIが、唯一神であるかのように語る。もちろん中学生全員がそうだと言うことはできない。ただ、傾向として明らかにある。

 

 

 

この傾向の根底には、僕ら若者世代、団塊世代、引いては人類の歴史にも通じてくる一本の線がある。

 

 

 

 

 

 

「分からないものは、分からないからこそ、すごい。」

 

 

 

 

ちょっと抽象的過ぎる。

 

 

 

 

どういうことかと言うと、中学生にとって、洋楽は「意味は全く分からないけど、意味が分からないからこそ、そのメロディと歌詞に何故か惹かれる」対象なんだと思う。「なんかカッコイイ」 「なんかイケてる」 「なんか好き」 そんな感覚がふつふつと湧き出ているような感じ。分からない洋楽は、自分が知らなかった海外文化という世界に、手軽に連れて行ってくれるわけだ。その結果、狂信的かつ盲目的にハマっていく。

 

 

 

 

 

「分からないからこそすごい」 という感覚は、僕らの身近にもある。日本で今最も有名な科学者、落合陽一氏を例に取ってみよう。彼が提唱する、「デジタルネイチャー」という考え方。翻訳すると、「高度に発達した計算機群は、自然と見分けがつかない」 ということ。つまり、技術が発達し、高度化していくと、機械は自然と融合して完全に溶け込んでしまうということだ。

 

 

 

彼の著書や発言には、スパッと理解するのが難しい言葉が並ぶ。楽観的シンギュラリティ、コモディティ化、テクノフォビア…

理系の学生はともかく、文系の学生には、ちっとも分からないと思う。

(実際僕もスパッと理解することができないし、彼に対して「凄い人だなあ」という認識を持っているものの、NewsPicksの「Weekly OCHIAI」を見ていて、何を言ってるのか全く分からないことがしばしばある。)

 

 

 

 

 

 

しかし、彼はいわゆる「意識高い系」の人たちから圧倒的な人気があると言われている。落合陽一本人は、意識高い系が嫌いと公言しているけれども、だ。

 

 

 

 

 

ここにも全く同様のロジックが働いていると思う。確かに落合氏は、自らの考え、世界観にピタリとはまる言葉を紡ぎ出して発言しているが、それを理解出来る人間はまだ少ない。理解している人間の母数に対して、圧倒的な人気があるのは、「分からないからこそ、すごい」という一種の無意識の中の作用が働いているから。(100%そうだとは断言しない。落合氏の考え方の中には、今までなかった革新的なものがあるので、それに共鳴している人や、部分もあると思う)

 

f:id:watax7710:20190225040320j:image

 

 

 

次に、歴史的観点からも例を出そう。遡ること70年以上前。時は日本が軍事国家へと突き進んでいた時代。有名な事件なので既知の方も多いと思うが、軍部の暴走を象徴的に表す事件として、二・二六事件がある。

 

 

 

 

 

当時、事件を起こした青年将校たちにとって、バイブルとなっていたのが、北一輝という人物が書いた「日本改造法案大綱」 だ。事件後、捕えられた青年将校たちは、裁判で口々にこう唱えたという。

 

 

 

 

 

「我々の理想は、北一輝大先生の日本改造法案大綱を一字一句違い無く実現することである!!」

 

 

 

 

 

ところが、「日本改造法案大綱」 の内容は、難解すぎてほとんど誰も理解していなかった。もうおわかりいただけただろう。青年将校たちにとって、「日本改造法案大綱」 は、分からないからこそ、燦然と輝き、強烈な凄みを持っていたというわけだ。

 

f:id:watax7710:20190225035355j:image

f:id:watax7710:20190225035400j:image

 

 

人間は、他のどの生物よりも、知的好奇心に溢れた生命体だ。それゆえの盲点というか、パラドックスが、「分からないから、すごい」という感覚に陥ることだろう。強い自戒の意味も込めて、自らがすごいと思うものは、なぜそう感じるのか。その理由付けを怠らないようにしたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

少なくとも、自覚があるかないかという差異だけで、盲信的で自我が脱落した、曖昧な世界線からは脱却できるはずだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最大多数の最大幸福

ベンサムが提唱した功利主義を最も端的に表す例として「トロッコ問題」がある。暴走するトロッコには10名の人間が乗っている。しかしその線路上には、1人の人間が取り残されている。ブレーキは間に合わない。

 

 

 

 

ベンサムの「最大多数の最大幸福」という考え方に照らすと、彼の答えは明確だ。

 

 

 

 

 

 

「線路上の1人を犠牲にしてトロッコの乗客10名を助ける」

 

 

 

 

哲学の話だが、倫理観を問う観点からしても意見が割れそうな話だ。

 

 

 

 

この「最大多数の最大幸福」の考え方は、僕らが生きる現代、とりわけ人間関係とかコミュニティにも通ずるものがあると思う。ゼミとかサークル、バイト、大学生が直面しうる様々な場面において、「リーダー」と言われる人たちはその瞬間の最大値をとる、もしくはその可能性が最も高いと思われる決断を下しているだろう。(全員がそうかは知らないけど)

事実、僕の周囲のコミュニティでも、それがいかに難しいことか生々しい実感を伴う話を何度も見聞きしてきた。

 

 

 

一方、決断を下される側、つまりリーダー「ではない」人たちの動きはどうなのか。理想論を語れば、全体の文脈と自身の欲望、希望の狭間で、上手くバランスの取れた発言をするべきだ。

しかしきっと人間はそううまくいかないし、うまくできていない。往々にして、全体の文脈を「考えたつもり」になって結果として欲望の正当化の盾に成り下がっていたり、完全に文脈を無視したりして欲望希望ありきの発言になったりしがちだ。事実自分の行動を思い返すと、前者のパターンに陥っていたケースが思い当たる。

 

 

 

 

感情と論理の分離は難しい。

 

 

 

 

巷に「組織論」「リーダー論」についての書籍が多く出版されているのも、これが大きな理由なんじゃないだろうか。人間誰しもが感情と論理の分離に苦しみ、エゴイストに寄っていく。その結果取りまとめに骨を折ることになる。

 

 

 

 

組織に必要なのはカリスマ的存在でもなく、独裁者でもない。一番必要なのは、構成分子たる一人一人の「少しの我慢、譲歩」な気がする。

 

 

 

 

 

 

「自己犠牲」「身を粉にして」そんな言葉が脳裏を過ぎった人もいるんじゃないだろうか。それは極論な気がする。要するに言いたいのは、自らの要望、欲望により達成される幸福の最大値(ここではとりあえず100を想定)から、10くらい引いて譲るということ。その瞬間に、「組織全体として」最大多数の最大幸福が達成される。

 

 

 

 

 

 

まあ、無理か。ベンサムさん教えてくれ。

 

 

Man Thinks About Apart from ...

「はい、人類を2つに分けて下さい」

 

 

 

 

こんな問いに対し、1番多い回答は「男と女」だろう。現代社会においてもこれは変わりなさそうだ。だって仕方ない。アダムとイブが神によって世界に生み出された瞬間からそうなっていたから。

 

 

 

 

 

そういえばsumikaもbacknumberもクリープハイプも歌ってた。

 

 

 

男は最初になりたがり、女は最後になりたがる。

(引用・sumika / lovers)

 

 

私があなたに優しくするのは、嫌われるのが怖いだけ

(引用・backnumber / stay with me)

 

 

「えっそんなつもりじゃなかったなかったんだけどとか今更言われても困るよ」とか今更言われても困るよ

(引用・クリープハイプ / ラブホテル)

 

 

 

そう、バンドを語りたいんじゃなかった。男女の相互理解だった。僕は男としてこの世に生まれてきたから、周りの男が考えてることは察しがついたりする。電車に乗ったら綺麗な人がいてラッキーとか、お酒でイキりたいとか、カッコよく見られたいとか、早く家帰ってAV観たいとか。

 

 

 

きっと不快に思ってブラウザバックしようとした人も多いだろう。でもたぶん本当にこんな感じ。ガキで低俗で、成人を目前に控えた今でも、ピストルとかガンダムとか見るとときめいちゃう。脳ミソの中は基本的に単一色で染め上げられている。

 

 

 

海外の論文に、面白いものがあったな。タイトルは、

 

 

 

「What Every Man Thinks About Apart from Sex」

 

 

この論文には、出典と参考文献以外なにも書かれていない。

 

 

 

「 Nothing. 」

 

 

 

つまり、それが答えだというのが結論だ。論文なのに文字がないのは衝撃的というか、素直にめっちゃ面白い。

 

 

 

こんな論文が存在する以上、男女の相互理解が可能か否かなんてほぼ答えが出たようなもんだ。間違いない。

 

 

 

「Impossible」

 

 

 

仕方ない。恨むなら神を恨もう。だって、「男性がセックス以外に考えてること」 の答えが 「何もない」 なんだから。

 

 

 

諦念の域に達するのがきっと正解なのだろうけど、そうもいかない。書店に行けば恋愛テクニック本が溢れてるし、backnumberもあいみょんも人気だ。

 

Neverまとめを覗けば、

 

 

「女性が男性にしてもらって嬉しいこと10選!まとめてみた!」

 

 

 

とか銘打たれて、そんなの吉沢亮がやればいいけど我々一般ピーポーには無理だよ???ってツッコミたくなるアドバイスが並べ立てられた挙句、

 

 

 

「いかがでしたか?皆さんも実践してみてくださいね!」

 

 

で締められてる。

 

 

 

さあ、お手上げだ。イギリスのコメディアンも言ってた。

 

 

 

「男と女で何が違うか?」

 

https://youtu.be/DzmDtDbOnD0

 

 

 

 

 

だって仕方ない。アダムとイブが生み出された瞬間から、そうなっていたから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Fukushimaと原発事故

福島=原発。これは、2019年現在、ほとんどの日本人が持っているであろうロジックだ。いや、世界的に見ても、「Fukushima」は原発事故の場所として有名になっている。

 

f:id:watax7710:20190222212154j:image

 

 

僕は福島で生まれ、福島で育った。そうである以上、他県出身の人にも、伝える義務があると思った。

 

 

このブログでは、

 

 

 

  1. 震災前の福島と原発
  2. 震災と原発事故
  3. 原発とその周辺の現状

 

に分けて、福島で一体何が起きていたのか、起きているのかについて知ってもらいたい。僕自身、専門家ではないため、多少の誤りは大目に見てほしい。また、知る機会がなかったことは致し方ないが、きっかけがある以上、このブログを読むことは必須になる。あなたが今日も東京電力管轄の、原発で作られた電気を使って生活している以上は。

 

 

 

 

1 .  震災前の福島と原発

 

 

福島には、東京電力管轄の原子力発電所が2つあった。福島第一原発福島第二原発。第一原発は、1971年に運転が開始された。原発の周辺地域には、多額の交付金が与えられ、地元経済の活性化に大きく貢献した。また、原子力発電所による雇用の創出も大きく、いわゆる 「原子力産業」 の恩恵を享受していた。

 

今では皮肉になってしまったが、そのことを象徴的に表わす写真が以下。

 

 

f:id:watax7710:20190222212758j:image

 

 

 

また、僕がまだ小学生だった頃には、地元ローカルのテレビ局で、福島第一原発のCMがよく流れていた。

 

f:id:watax7710:20190222212433j:image

 

 

たしかこんな感じだったと思う。

 

 

とにもかくにも、福島と原発は密接な関係で繋がっていた。しかし、震災前の県民の中には、危険を提唱する者などおらず、それどころか原発があることを疑問視する視点すらなかった。それほどに、「当たり前」の存在であったのだろう。

 

 

 

 

2 .  震災と原発事故

 

 

忘れもしない2011.3.11。東日本大震災福島県も、沿岸部を中心に震度6を超える揺れに襲われた。

 

 

 

この時点で、原発は壊れていない。原発は震度6の揺れに耐えた。

 

 

 

 

 

次に起きた大津波が、原発と、福島県民を翻弄する惨劇の引き金となった。

 

 

 

 

 

原発は、簡単に説明すると次のようなメカニズムである。

 

 

核分裂によって発生する熱を利用して蒸気を発生、噴射し、その力でタービン(羽みたいなの)を回して発電する」

 

 

 

 

ではなぜ、事故が起きたのか。

 

 

 

原子力発電の際に使用される核分裂反応は、熱を伴う。そのため、常に機械によって管理され、充分に冷却が行われなければいけない。

 

 

 

 

しかし、地震津波によって原発は電源を失った。非常用電源と呼ばれるものも、最悪なことに津波で水没。原発は冷却不可能に陥ったのだ。この状態を、「全電源喪失」という言葉でテレビが伝えた。

 

 

電源喪失の段階で、多くの県民が危機感を覚えたかは定かではない。しかし、少なくとも僕の両親は

 

 

 

原発がなにかヤバいことになっている」

 

 

 

という認識はあったようだ。幸運にも停電を免れていた僕の家では、父が必死にパソコンでなにかを調べていた。きっと「全電源喪失」がどういう事態で、何がヤバいのかを把握しようとしていたのだと思う。

 

 

電源喪失に陥った福島第一原発について、当時の枝野官房長官は、会見でこう繰り返していた。後々、全くの嘘であったことが判明し、強い憤りを感じた言葉だったので、今でも覚えている。

 

 

 

「皆さん、原発は大丈夫ですから、どうか落ち着いて、落ち着いて行動してください。」

 

 

 

 

本当は、何一つ大丈夫ではなかった。当時の東電会長、勝俣や社長の清水の方針で、「メルトダウン」との言葉を避け、事実と異なる「炉心損傷」とウソを垂れ流していたに過ぎなかった。

 

 

原発を冷却するため、何台も、長い首を持つ消防車が送り込まれて水を放出していたし、ヘリコプターが水槽のようなものを吊り下げて、海水を汲んで空から撒いていた。それでも冷却には微々たる効果しかなかった。

 

 

f:id:watax7710:20190222221608j:image

 

f:id:watax7710:20190222221612j:image

 

 

 

 

 

 

原発の格納容器に入っているウランなどの核は、どんどん熱を帯びて溶け、メルトダウン(炉心溶融)が起きた。これは、冷却系統がダメになることで、核燃料が溶けだしてしまうことを言う。かつて史上最悪の原発事故と言われたチェルノブイリ原発事故でも、同じ現象が起きていた。

 

 

 

 

悲劇は、これだけでは終わらない。

 

 

 

メルトダウンの発生により、水素ガスが発生したのだ。水素ガスが空気に触れれば、水素爆発を引き起こす。

 

 

 

 

そして、3月12日に一号機が、3月14日に三号機が、それぞれ水素爆発を起こした。なかでも三号機の水素爆発は激しく、空気中に大量の放射性物質がばらまかれた。この時、風向きは北西。放出された汚染物質は、風に乗り、そして地上へ降り注いだ。

 

 

 

 

僕の地元は、原発から南に50キロ程の場所にある。もし、当時風が南向きに吹いていたら、放射性物質により汚染されたのは、僕の生まれ故郷だったかもしれない。この言い方は正しいか分からないが、当時、情報が錯綜するなか、人々は運命のいたずらに左右されてしまったのだ。

 

 

f:id:watax7710:20190222220253j:image

 

原発事故により地上へ降り注いだ放射性物質は、避難を必要とするレベルのものだった。一般的に、地上の放射線量は0.09マイクロシーベルトくらいだ。しかし当時は、5.75マイクロシーベルトとかが普通に伝えられていた。場所によっては、30マイクロシーベルトを観測したとも伝えられた。いかに異常な、ありえない状況であったかが分かると思う。僕の地元でも、高いときには3マイクロシーベルトを観測していたことを覚えている。

 

f:id:watax7710:20190222220300j:image

 

 

これが、原発事故の一連の流れだ。当時、福島県民の中には、政府の狂ったような「アンゼン、アンゼン」の言葉に不信感と不安を持ち、また、原発から30キロ圏内の住民への避難を呼びかける報道を目の当たりにして、自主避難を行った人たちも大勢いた。僕も、両親、妹や祖父母と共に、山形の親戚の元へ一時的に避難した。

 

 

 

 

 

冷蔵庫の中身を捨てるなどという余裕は残っておらず、3週間後に父と祖父が家へ戻った際には、冷蔵庫から凄まじい異臭がしたという。また、街もゴーストタウンと化しており、街の大通りには、人はおろか、車の姿すらほぼ見当たらなかった。福島は、得体の知れない、目に見えない物質への恐怖に晒されていたのだ。

 

 

 

 

 

 

3.  原発とその周辺の現状

 

 

原発は、現在廃炉へ向けて計画的に作業が進められている。チェルノブイリでは、原発自体をコンクリートで固める「石棺」というやり方がとられた。しかし、福島第一原発では水で中を満たす「水棺」が打ち出されている。

 

 

 

 

しかし、原発事故は終わったわけではない。むしろこれからの方が長い。

 

 

 

 

廃炉計画は、30年かかると言われている。原発事故は、これからの方がずっと長いのだ。そして、現在新しい問題も取り沙汰されている。原発事故によって故郷を追われた人々への賠償金の問題。原発作業員が生活する場所における、治安の悪化などだ。

 

 

 

 

福島では、街の至る所に「モニタリングポスト」と呼ばれる線量計が設置されている。福島育ちの僕はもはや見慣れてしまったのだが、冷静に考えると異様な光景だ。さらに、モニタリングポストの数値、及び原発周辺、海水から放射性物質が漏洩していないかは、毎日天気予報とセットで報道されている。

 

 

 

f:id:watax7710:20190222222445j:image

 

 

 

 

 

 

「今日の放射線量です。」

 

 

 

アナウンサーが毎日発するこの言葉の裏側にベッタリと貼り付いているのは、まだ原発事故は終わっていないという悲痛な叫びなのかもしれない。しかし、この言葉が届いているのは福島県内だけだ。

 

 

 

f:id:watax7710:20190222223159j:image

 

f:id:watax7710:20190222223154j:image

 

 

 

 

 

 

一連の長い文章を拝読してもらってありがとう。これを機会に、原発に賛成か反対か、よく考えてみて欲しい。これは、日本全体で考えるべき問題なのだ。

 

 

 

 

 

 

もしそれでも、「原発?東電?どうでもいい。いま自分が生活できてるから知らない」 と切り捨てる人間がいるとすれば、そういう方には、是非一度、福島県においでいただきたい。そして、福島県民の目の前で、もう一度大声でそう言ってもらいたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

全部、雪のせいだ。

ごきげんよう。各位、春休みは謳歌していますか。平日にスーツケースを携えて新宿を歩くなどして、道行くサラリーマン達に睨みつけられていますか。Netflixに浸る自堕落さはありますか。時々訪れる、どうしようもなく寂しい夜には、誰かに電話をかけていますか。

 

 

 

 

 

少なくとも、僕は元気です。溜まった洗濯物を処理して、2人前のパスタを作って、少し後悔する。そんな日々です。

 

 

f:id:watax7710:20190222174500j:image

 

 

 

 

 

近頃、東京は雨が多いように思うのは僕だけでしょうか。僕が雨が好きな、物好きだったら良かったんだけど、残念ながら嫌いで。それは、白スニーカーを汚す原因全てが、僕の嫌いなものの全てだから。自明に全てじゃないけれど、全て。

 

 

 

 

 

でも、この時期の雨はちょっと好きだったり。雨が降るたび、いや、雨が止むたび、空気が変わるのを感じる気がするから。ヒタヒタと春が近づいてくる、気温と一緒に、冷え切った身体の芯に、熱が宿る感覚。

 

 

 

 

「この感覚、わかる?」

 

 

 

 

 

「ぜんぜんわかんない。」

 

 

 

 

友達Sには、理解されなかったみたいだ。地元にスタバとNEWDAYSがある人間はこれだからダメなんだ。ごめんよNEWDAYS。そうだった。僕の地元は、最大瞬間風速を出してミスドとイトヨーだ。そりゃ、感性も鋭くなる、鋭くしないとやっていけない世界線

 

 

 

 

 

 

雨が降る直前の、植物とアスファルトが8:2くらいで混ざりあった、青々しい匂い。凍てつく寒さの下、真っ直ぐに照りつける太陽と、朝の柔らかな匂い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まだ30日以上残されている春休み。単位もGPAもバイトもスマホも、春だから、いや春だけど、全部雪のせいにしてしまえ。

 

 

 

 

 

針がとれた羅針盤、狂ったコンパス

大学生活に正解なんてない。まして、人生に正解不正解なんてない。もっと言えば、限りなく最適解に近似した生き方なんてないのかもしれない。

 

 

 

 

18,19歳の若者は、きっとそれでも綺麗な正解を求めてしまう。自己評価とか自己分析とかやり方もよく分からないままに、心の片隅でどこかの誰かを全力で蹴りながら生きている。たぶんそう。

 

 

 

 

僕もそんなクズの一員だ。悪くない。マイノリティでも別に気にしないよと言いながらも、本当は内心ビクビクしていて、マジョリティならフッと安心感に苛まれる。大学という、今やほぼ全員にとって名ばかりの研究機関に属している我々は、大別して二極化する。

 

 

 

 

 

 

「大学を将来から逆算した時の踏み台にする者」

 

「大学をジャンプ台にして何者かに昇華しようとする者」

 

 

 

 

 

僕は、後者だ。ゼロベースから、自分が何が得意で何が好きなのか、それを探すために来た。

「ジャンプ台にして何者かに昇華」 とは、授業料にお金を投資して貰ったんじゃなく、4年間という「時間」そのものに投資して貰った感覚が強い者のこと。

 

 

 

 

針がとれた羅針盤か狂ったコンパスを携えて、そこにピッタリ付く針を探し、コンパスを正常に矯正するための時間。

 

 

 

 

とりあえず、ありきたりな後悔はしたくない。そう思って、思考を形として残しておくためにブログを始めたし、一瞬、刹那的な何かを切り取るために写真を撮る。寂しさだけで人に電話をかけるし、ご立派で尊敬できない大人たちの「有難いお説教」は右から左へ流す。衝動のままに本を買って読む。会って喋りたかったら約束して飲みに行くし、夜更かしもなんとなくでする。

 

 

 

 

 

針がないならないで、やりようによってどうとでもなった。狂っているなら狂っているなりに、突き進める。

 

 

 

 

 

GPAとか気にして生きてたら、高校までの偏差値教育からいつまでも抜け出せないで、画一的な判断基準しか持っていないまま、クソつまらない20歳になりそうで怖い。周りの目を気にして生きていたら、中央線の満員電車で押しつぶされたリュックと同じように、東京に呑み込まれて無くなる気がして嫌だった。

 

f:id:watax7710:20190221060416j:image

 

 

 

 

 

 

 

こういう論理の関係ない、冗長な文章は、誰かに理解されたくて書いてるわけじゃない。いや、脳の端っこでは、誰か1人でもいいから理解してくれって叫んでるけど、理解されたくて書いてるわけじゃないと言い張らないとダメな気がしてる。タピオカ振ったストーリーも、画素越しでする乾杯のストーリーも、反吐が出るほど嫌いな日もある。絶対にナシなことは一周回ればアリという友達の言葉。支離滅裂過ぎるけど、とりあえず明日も息しとくかと思える。狂ったコンパスを握りしめて、今日も朝方6時過ぎに眠りにつく。20歳になったら、終電で友達と新宿か渋谷に行く。そしてスト缶を片手に、もう片方は煙草を持って、肩には一眼レフをかけて、一晩中夏の真夜中を徘徊する。このぐらいバカでイキってて痛くてどうしようもないことしたら、4年後後悔しないような気がする。いや、未来のこと考えてる時点で既に負けなのかもしれない。

大学生はリーガルハイを観よ

僕の大好きなドラマのひとつに、「リーガルハイ」 がある。これは、2012年からフジテレビ系で放送された、日本のテレビドラマシリーズだ。一応説明しておくと、訴訟で一度も負けたことがない敏腕弁護士・古美門研介と、真面目で正義感の強い新米弁護士・黛真知子の2人が繰り広げる、コメディタッチの法廷ドラマだ。

 

 

 

 

 

あくまでコメディタッチのドラマなので法学部生は「あんなの裁判じゃない!」とカチキレるかもしれないけど、とりあえず聞いてくれ。

 

 

 

 

 

あのドラマが伝えたいのは  「裁判」  じゃない。

 

 

 

 

現代によくある社会問題、ひいては 「人間問題」 への問題提起だ。たぶん当時リアルタイムで見てた僕らは、まだ中学生のクソガキだった。今もう一度見直すと、見え方が大きく違ってくるはずだ。公害問題、隣人間トラブル、恋愛憎悪劇。身近に起こるトラブルは、だいたい描かれてるから、昇華じゃなくて自分の半径の中に落とし込んで考えると、「生きるヒント」みたいなのが散りばめられている。

 

 

 

 

 

 

 

なかでも一番好きで、僕の座右の銘になっている古美門の言葉がある。

 

 

 

 

 

我儘で勝手でずるくて汚くて醜い底辺、それこそが人間だ。

だがそれでも、醜さを愛せ。

 

 

 

 

 

 

 

人間生きてりゃきっと誰しも、隠したい過去も触れられたくない失敗も、投げられたくない言葉も、劣等感も、自己否定感もある。

 

 

 

 

それこそが人間だと、古美門は言うわけだ。自らが正義で、自分が中心に世界は回ってると、そう考えて生きる人生もありだろう。でも考えてみりゃ、正義とか倫理観なんて、人それぞれの尺度で変わる流動的かつ抽象的な概念だし、本当に法律こそが正しいかなんて分からない。「悪法も法なり」っていう言葉が象徴してる。

 

 

 

 

だったらもう最初から、自分の醜さを全部受け入れればいい。他人と自分を比較して心の中でマウント取る自分とか、周りに非難されるような恋愛観とか、思想も感情も行動も全部だ。ゼロスタートなら、醜いが最初に来るなら、肩の余計な力が抜けて気が楽になると思う。

 

 

 

 

とりあえず嫌なことがあった日には、風呂入って好きなバンドの好きな曲聴いて、布団にくるまって泣いてそのまま忘れてしまえばいい。嫌なことをそうでもしないと消化し切れない弱さでさえも、人間の愚かさの一部に過ぎない。

 

 

 

 

完全無欠ならAIに任せればいい。弱さを見せないという、砂上の楼閣はきっといつか崩れる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

醜さを、愛せ。