最大多数の最大幸福

ベンサムが提唱した功利主義を最も端的に表す例として「トロッコ問題」がある。暴走するトロッコには10名の人間が乗っている。しかしその線路上には、1人の人間が取り残されている。ブレーキは間に合わない。

 

 

 

 

ベンサムの「最大多数の最大幸福」という考え方に照らすと、彼の答えは明確だ。

 

 

 

 

 

 

「線路上の1人を犠牲にしてトロッコの乗客10名を助ける」

 

 

 

 

哲学の話だが、倫理観を問う観点からしても意見が割れそうな話だ。

 

 

 

 

この「最大多数の最大幸福」の考え方は、僕らが生きる現代、とりわけ人間関係とかコミュニティにも通ずるものがあると思う。ゼミとかサークル、バイト、大学生が直面しうる様々な場面において、「リーダー」と言われる人たちはその瞬間の最大値をとる、もしくはその可能性が最も高いと思われる決断を下しているだろう。(全員がそうかは知らないけど)

事実、僕の周囲のコミュニティでも、それがいかに難しいことか生々しい実感を伴う話を何度も見聞きしてきた。

 

 

 

一方、決断を下される側、つまりリーダー「ではない」人たちの動きはどうなのか。理想論を語れば、全体の文脈と自身の欲望、希望の狭間で、上手くバランスの取れた発言をするべきだ。

しかしきっと人間はそううまくいかないし、うまくできていない。往々にして、全体の文脈を「考えたつもり」になって結果として欲望の正当化の盾に成り下がっていたり、完全に文脈を無視したりして欲望希望ありきの発言になったりしがちだ。事実自分の行動を思い返すと、前者のパターンに陥っていたケースが思い当たる。

 

 

 

 

感情と論理の分離は難しい。

 

 

 

 

巷に「組織論」「リーダー論」についての書籍が多く出版されているのも、これが大きな理由なんじゃないだろうか。人間誰しもが感情と論理の分離に苦しみ、エゴイストに寄っていく。その結果取りまとめに骨を折ることになる。

 

 

 

 

組織に必要なのはカリスマ的存在でもなく、独裁者でもない。一番必要なのは、構成分子たる一人一人の「少しの我慢、譲歩」な気がする。

 

 

 

 

 

 

「自己犠牲」「身を粉にして」そんな言葉が脳裏を過ぎった人もいるんじゃないだろうか。それは極論な気がする。要するに言いたいのは、自らの要望、欲望により達成される幸福の最大値(ここではとりあえず100を想定)から、10くらい引いて譲るということ。その瞬間に、「組織全体として」最大多数の最大幸福が達成される。

 

 

 

 

 

 

まあ、無理か。ベンサムさん教えてくれ。