小5の僕と311。(No.005)

福島出身のひとりとして、震災については書かなければいけないという使命感に駆られた。今日は震災当日の様子を時系列的に書いていこうと思う。

かなり赤裸々に様子を書いたので、当時を思い出したくない人は読むべきではない。

単純に、多くの県から人が集まっている大学に来たからこそ、ひとつのケースとして伝えたくて書いた。

 

 

 

 

当時、僕は小学5年生だった。1日の終わりに毎日ある、帰りの会の真っ最中。なんなら僕らは、ノートをぶん投げて配っていたのが先生に見つかって、説教されていた。14時45分。

 

 

14時46分。

 

 

経験したことない、大きな縦揺れに襲われた。

 

 

「机の下に隠れなさい!」先生の声が聞こえる。咄嗟に机に潜る。まさか避難訓練と同じ状況が来るとは考えてもいなかった。

震度6、2分にわたる揺れの中で、僕は必死だった。

 

隣の友達の机の脚も一緒に握りしめていないと、机ごと飛ばされてしまうくらいの激しい揺れ。目を見開いて、歯を食いばる。ゴゴゴゴという揺れの音に混ざって、花瓶が割れる音が聞こえた。

 

この先死ぬまでで、1番長い3分が経過した。

やっと止まった…

 

 

その後、校舎外に出て、どのくらい経っただろう。帰路につくことになった。母が学校まで走って迎えに来てくれたのだ。

 

 

「大丈夫だった?」

「うん。」

 

 

安堵感より危機感が勝つ、それほどに緊迫した状況だった。なにせ、道路は液状化でドロドロになっているし、街の至る所で塀は倒れ、ガラスが割れた跡が見えるのだ。(妹は下校中で、あやうく塀の下敷きになるところだったらしい)

ドラマのように、安堵感から泣いて抱き合ってる暇なんて微塵もない。怪我をせずに帰れるだろうか。父は無事だろうか。家の様子は?沿岸部の津波は?

 

そんなことが頭の中をぐるぐると回って、行ったり来たり。普段は30分で帰る道のりを、1時間以上かけて帰った。

 

家に戻った安心感もほんの一瞬、家の中はなかなかにひどく荒れていた。片付けなきゃいけない。

とぼとぼと教科書をかき集めて積み上げていると、階下から鋭い母の声が飛んできた。

 

「水!」

 

 

今度はなんだと思うと、水が細くなってきているという。浴槽を満杯にし、家中のペットボトルに水を溜める。そしてまもなくして、断水。

 

祖父母、曾祖母、母、妹、僕は、一箇所に集まるべきということで、一番頑丈な机の傍らに、ヘルメットを抱えて集まっていた。テレビには津波の映像が映る。

 

大洗。仙台。小名浜。見覚えのある光景もあった。

 

テレビの中で津波が来ている。

不思議なことに、全く実感が湧かなかった。信じたくなかった。

 

目に焼き付いたその映像は、今でも走馬灯のように思い出せるが、現実とは思えない、思いたくない凄惨さを含んでいた。残酷なことに、それでも時間は進んだ。

 

たしか午後6時を回ったころだったと思う。父が帰宅した。道路は大渋滞だったらしい。

 

束の間の安堵感が流れた。

 

夜になると、不安は増していった。収まらない余震。(一時的だったが)停電。原発は全電源喪失と伝えられている。明日どうなるかも全くわからない。まさに一寸先は闇。

 

 

夕食はマグロ丼だった。水を節約する為、丼にラップをしいて、その上によそった。もちろんお風呂なんて入れないので、タオルで体を拭いて済ます。(この時はまだ、電気が通っていた。)妹と2人、2階の同じ部屋で横になる。父と母は階下で、忙しなく話し込み、ニュースを食い入るように見ていた。

 

 

眠りに落ちるのが、一番怖い夜だった。

 

 

P.S.

続きは、書くかわからない。正直あまり書きたくない。でも、自分の出来る範囲で、伝える努力はすべきだと思っている。